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なぜ「仲良くしよう」とすると上手くいかないのか

譲り合いの強要は争いを生む。

以下本文。


◾️「仲良くしよう」は成立しない?

先日、職場の同僚と喋っていた時に話していて気になった発言があった。同僚は比較的気弱で温厚な人であるが、彼女は人と揉めることが多いらしく、限界に達したのか「みんな仲良くしようよ!」と声をやや荒らげて言っていた。

私は彼女の発言を聞いた時、思わず口元が緩んでしまったのを覚えている。そして「なぜ仲良くしなければならないのか?」と聞いたことも含めて。彼女は私の問いかけが思いもよらなかったのか、拍子抜けのような顔をして口を開けていた。

「仲良くしなければ成立しない仲であれば、逆に私は仲良くする理由は何だと考えるけど」私はこう言った。彼女はしばらく口を噤んでいたが、真剣に眉を顰めて考えていた。

◾️「仲良くしよう」の定義について

恐らく彼女にとって「仲良くしよう」という言葉に意味は無いだろう。社会人になってからよくこの言葉を聞くようになったが。では、具体的に仲良くするとはどういったことなのか。

私は、人と人が仲良くするのは結果論であると思っている。言い換えれば、仲良くしている状態とは「結果的に(あるいは偶然的に)相手と気が合うとかがあって、一緒に時間を過ごしていたらそうなっている」ことを指すのでは無いか。

ゆえに、「仲良くしよう」というのは「仲良くすること」そのものが目的になってしまっているのではないか。そして、それを他人に要求することとは端的に「貴方がどう思おうがどう感じようが、私の前では良い顔をしろ」という事になる。やや言い過ぎ感はあるが。

では「仲良くする」とはどういったことを指すのか。
私はこれについて、ほとんどの人は無意識に、あるいは意図的に行なっている事だと考えている。

言わずもがな、無意識に「仲良くする」方が結果的にも将来的にも良いのは目に見えているだろう。
意図的に「仲良くする」を取ったとして、自身の感情に嘘をついて相手に擦り寄っているわけだから、長期的には通用しないのは当然である。

◾️「仲良くしよう」というのは他者の人間性や価値観の否定である

私はこの「仲良くしよう」と言う人を何人か見たことがある。学生時代のクラスメイト、年上の友人、気が合わない上司、そして先述した職場の同僚。
きっとこの記事を読んでくれる方々にも思い当たるような人がいるかもしれないが。

今ふと彼らの顔を思い返して気づいたことは、彼らは大概「自信が無い」が「自己主張が強いタイプ」だということだ。
また、非常に共感能力が強いが、同時に主観が強くかなり感情的にものを決めつける傾向があるのだ。

それはつまり、彼らには他人の気持ちが見えてない、あるいは想像できていないとも言える。
一般的には、共感能力が高い人ほど他人の気持ちに理解があるとも捉えられるかもしれないが、私が考えるに共感とは「与えられた情報に対して個人的な過去と照らし合わせ、その時の体験を思い出す作業」だ。

ゆえに「共感」とは「己の過去に浸ってその時個人的に感じた感覚を思い出す作業」であるので、そもそもそれは他人に対しての理解ではなくただの自己陶酔的な時間とも言える。

話が少し逸れてしまったが。
では、どうしてそのような人たちはしばしば「仲良くしよう」と言うのかについて。
言うなれば彼らが「仲良くしよう」と口にするのには、「あなたの感情や意見はどうでも良いから、ともかく私と仲良くしなさい」的なメッセージがあると見て取れる。

こう書くと極端かもしれないが、そもそも本当に心の底から仲良くしたいと思っている相手に「仲良くしよう」なんて回りくどいことを言うだろうか。

要は、相手が自分と価値観が合わず、もしくは相手のことが理解できない(理解する気がない)が、自分には(どういった理由があれど)仲良くして欲しいから「仲良くしよう」と言っているだけではないか。
尚、「仲良くしよう」と言っている側が仲良くしたいと思っているかは別問題だが。もし仲良くしたいと思っていないのに言っているならば、かなりタチの悪い人間ではあるだろう。

本当の意味で他人を理解する気があるなら仲良くしようなんて軽々しく口には出来ないと思うが。
個人的には、相手の人間性と価値観を真っ向から否定する烏滸がましい主張に聞こえる。

◾️「仲良くしよう」と言う人ほど争いを好まない矛盾

「仲良くしよう」という言葉は、自信のなさの現れである。

そもそも、相手と本当に仲良くしたいと思うならば「私は貴方と仲良くなりたいです」と素直に伝えれば良いだけの話だ。

それをわざわざ「仲良くしよう」と言うのは「自分とこの人は本当に仲良くできるのだろうか…」という不安があったり、「私はこの人と本当は合わないんじゃないか」というような漠然としたモヤモヤがあるからだ。

だからこそ、言葉を選んで「仲良くしよう」と言うのだと思っている。自分1人の力ではどうにもなりそうもない、自分にはどうしようもないから相手を巻き込もうとする。

だが、そこに相手の都合や本音が配慮されているだろうか。あくまで「仲良くしよう」と言う側には最もな理由があるのかもしれないが。それは言い出した側が勝手に納得して出した答えであり、言われた側の意見は全く含まれていない。

また、「仲良くしよう」と言われて多くの人はモヤッとしたことはあるのではないかと思う。
それは言われる側に配慮が無いからであり、意思を強制的に無視されたことに対しての不満が湧き上がるからだ。

「仲良くしよう」と言い出す人にとっては、あくまで「仲良くする事」が目的にある。だから相手とは形がどうであれ仲良くさえできれば良いということになるが。
これがまた面倒臭い話で、そういう人は往々にして相手の意思を土足で踏みつけているなんて思いもしない。

言った相手によっては「なんだお前は」と反感を買う羽目になり、もっと酷ければ喧嘩を売られて嫌われるなんて事になる。

ゆえに、望んでもいないが自分で踏んだ地雷によって痛手を負うなんて事になる。また皮肉な事に、どうして相手を怒らせてしまったのかも理解できていないことが多い。

◾️「仲良くしよう」の成立は我慢の延長線にあり、そこに好意は無い

「仲良くしよう」が目的化された関係というのは非常に冷めたものになりやすい。

どんなに不器用な人であれ、サイコパスであれ、誰だってやろうと思えば他人と仲良くできるものだ。それは自分が言いたいこと、感じることを我慢しているからで。

どんなにいやらしい感情でもどす黒い感情でも、言わなければ相手には伝わらない。ひたすら相手が「嬉しいと感じるかもしれないこと」を施し、相手の歩く速さに歩幅を調節などすれば良いだけのことだ。

だが、それをする理由がどこにあるというのだろうか?
そもそも、それをやったとして楽しいと思えるのだろうか?その人と一緒にいる意味はあるのだろうか?

互いに言いたいことを我慢し合い、本当はワッと口に出したくなるような悪意がある本音も言わずして成り立たせる「仲良くしよう」にどれほどの価値があるものだろうか。

人というのは、人と違うから面白いと思うのではないだろうか?あるいは、全く違うだろうと思っていたのにふと意見が合った時の喜びに、人は嬉しさを見出すものではないか。

我慢の延長線上にある「仲良くしよう」など、まったく価値がない。好きでもない相手と仲良くするのなんて時間の無駄であるし、何よりこちらに好意がないと分かっている虚しさ。

そんなものを他人に要求する人と、私は仲良くしたいなどとは思えない。

◾️「仲良くしよう」と言う人に良い奴はいない

「仲良くしよう」という言葉は利己的で自己中心的だ。

相手の姿がちゃんと見えてる奴は、自分の言動で相手がどう感じるかを想像する。相手が自分の発言にどう反応するか気になって質問したりもする。

仲良くなりたいと思ったら相手の話を聞いてしまうなんて恋愛ではよくある話だろう。相手のことが知りたいと思うのは好意であり、本当の意味での歩み寄りだ。

それをせず、ただ自分がそうしたいからと相手の意思を踏み躙ることは決して褒められるような行動ではない。
相手に歩幅を合わせず、自分がこうであったら気持ちいいとかやり易いとか自由でいられるとか思うことの方が気になって、結果的に相手が見えなくなる。

相手が見えないということは、相手のことなど思う気がない事の裏返しでもある。自分のことばかり気になるのは自分の事が誰よりもどの存在よりも大事だからであり、自分が傷つかないことを優先したいからだ。

人がナルシストを嫌うのは、自身に配慮してくれない事や好意が無い事に嫌悪感を覚えるからだと思っている。
「仲良くしよう」と言う人は自分が第一優先にあり、自分以外はそれ以下でしかないのである。

◾️まとめ

長々と書いたが、要するに「仲良くしよう」なんて言う人にまともな人間はいない。

コミュニケーションにおいて大事なのは如何に公平性を保つかであり、相手を思いやって想像し、相手が嬉しいと思えることを一緒に考える事ではないだろうか。

「自分がどう言ってやろうか」ではなく「自分がどう言ったら相手はどう感じるのか」が重要であって、コミュニケーションそのものは自分の気持ちよさのためにあるものではない。

そもそも、相手とのコミュニケーションや人間関係を自分が気持ち良くなるためとしている人は、私が見ている限りそれなりの頻度で相手と揉めている事が多い。

多くの人は自分が間違ったことを言っているなんて思いたくないから、無意識に相手を変えようと頑張ってしまうものだ。しかも、悪意の無い人ほど言葉での通じ合いを求めるくせに最後は理解されないと憤慨するなんて、私にはよくあることだ。

独りよがりなコミュニケーションは争いを生む。彼らがそれに気づきさえすれば人間同士の争いなんて劇的に減るかもしれないが。

恐らくそういうのは無理であろうし、私にとってはそれをわざわざ彼らに教えることの方が余程傲慢であるとさえ思うのでやりたくはない。

ただ、気づく時には気づくであろうし、気づいてから罪悪感を感じて後悔する方が本人にとってはより勉強になるだろうと思っている。無論、勉強代にしては高すぎるとは思うが。

私も自己中心的なコミュニケーションには気をつけていきたいと思っている。

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