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素を見(あらは)し、撲を抱け。(前篇)

 桃の花咲くうららかな春の日に、僕はアメリカ人のB君と、熊野の玉置山を登っていた。玉置山の山頂には、熊野三山の奥の宮と呼ばれ、古来修験者の祈りの場であった玉置神社が鎮座している。僕たちの目的は、そのお社をお参りして、境内に木細工や石細工の店を構えているという、B君の自然農の師に会うことだった。

 B君は、僕の大学時代の先輩であるSさんとモンゴルのホースキャラバンで出会い、その後日本に来て、結婚した。二人はしばらく東京に住んだ後、安住の地を探すため、キャンプや車中泊をしながら西日本を周り、十津川村にその地を見出したのだった。

 ホースキャラバンとは、世界各地から口コミで集った旅人たちが、モンゴルの首都ウランバートルで馬を借り、現地の遊牧民よろしく大草原を旅しながら、西の果てにある湖を目指すというものだ。
 Sさんは、ジャーナリストの父親と日本舞踊の師範の母親のもとロンドンで生まれた帰国子女で、小柄な体躯にあどけない顔つきをしながら、芯の強い知性を持つ女性だ。僕は彼女と大学の民族音楽概論という授業で出会い、お互いに関心が近かったことや、海外の話に通じていたこともあって、意気投合した。大学を卒業すると、僕はインドに旅立ったが、Sさんはモンゴルへと向かった。
 B君は、190cmを超える巨躯に、秋の麦穂のように美しい金色の髪を腰まで伸ばしている。アメリカ大陸をカナダとの国境からメキシコとの国境まで歩いて縦断するほどのタフガイだが、物腰は優しく、穏やかで、瞳には少年のようの輝きを宿している。十津川に来る前、東京で暮らしている二人を訪ねたとき、僕とB君は国分寺の公園を散策しながら、これはオーク(楢の木)だね、などと、木の名前を言い当てっこして盛り上がり、友情を深めたのだった。

 2019年の冬に帰国してから一年余りの間、家に籠って翻訳の仕事にかかりっきりだった僕は、息抜きも兼ねて、海外にいたときからの望みであった国内旅行をすることにした。中古の軽バンを買って、車中泊できるように車内を改造し、鶯の初音が聞こえる頃、西に向かって出発した。二人が十津川に住んでいることは知っていたので、学生の頃一度訪ねた熊野を再訪するつもりで、紀伊の山奥まで会いに行くことにした。
 十津川村にアクセスするルートはいくつもあるが、今回はひょんなことから高野山に前泊したので、熊野川を南下することになった。十津川温泉まで約2時間ほど、幾重にも連なる山々を尻目に、国道に沿ってひたすら車を走らせる。途中、ほんのり硫黄の香りがする十津川の名泉に浸かり、残り50分ほど、山を越え谷を渡り、九十九折りの細道を二人の住む集落に向かった。
 幹線道路沿いの山は比較的傾斜が緩く、植林された杉木立の鬱蒼とした緑に覆われているが、十津川温泉を超えたあたりから、道は険しい断崖の間を行くようになる。百メートルはあろうかという滝が一つや二つ。暮れ合いの黒々とした岩肌に、鮮やかな紫色をした山躑躅がぽつぽつと咲いていた。西日を受けて輝く雑木の梢。地上の浄土として、いにしえの信仰を集めた熊野の地に、今足を踏み入れているのだという静かな感動が、胸の底からふつふつと湧いてくる。あまりに美しい景色に、何度も視線を奪われてしまう。ガードレールもないような道でよそ見して谷底に落ちてはシャレにならないので、仕方なしに車を止め止め向かっていたら、倍も時間がかかってしまった。


 ようやくたどり着くと、道路脇に止めた車から家に荷物を運ぼうとしているB君が、人懐っこい笑顔で迎えてくれた。石段を登り、鉈や鍬などの農具が片づけてある裏口から家に入ると、「よく来たね」という、変わらない快活な声。台所の棚には、豆や粉、スパイスといったさまざまな食料を詰めた瓶が所狭しと並んでいる。Sさんは玄人はだしの料理人で、和食からインド料理まで、そんじょそこらの高級レストランでも食べられないような極上の料理を作る。その夜も、山桃を漬けた自家製の酒などを振る舞ってくれ、久方ぶりの話に花を咲かせながら、Sさんの作る田舎料理に舌鼓を打ったのだった。

 明くる朝、僕はB君と連れ立ってあたりの散策に出た。

 玄関を出ると、あることに気が付いた。二人の家は5、6mはある台地の上に立っているので、誤って転落しないように前庭に石塀が巡らされている。しかし、そのうちの二か所が、幅1mくらいすっぽり欠けているのだ。B君いわく、神様を家に迎え入れるための入口と、お送りするための出口、らしい。とはいえ大家さんも危ないと思ったからか、一方の口には隙間をとって木の板が打ち付けてあった。「隙間があればいいのかな」と素直な疑問を口するB君。
 二人が暮らすのは過疎が進む谷合の集落で、今では住んでいるのは7世帯ほどだそうだ。住居は山の斜面を開いたところに建てられていて、上の方にある家は車を直接乗り入れることができない。家と家との間に、レールのようなものが巡らせてあったので、これは何かと聞くと、一昔前までは、足腰の弱い老人方のためにトロッコが走っていたのだという。電信柱や舗装された道路を除けば、そっくりそのまま昔の農村の風景に、おじいさんやおばあさんが遊園地さながらのトロッコに乗って坂を上り下りする光景を想像すると、どこかシュールでおかしい。
 錆びついたレールに沿って、石段を登り、山へと入る。道々の石垣は至る所に草を覗かせ、田畑は打ち捨てられてあった。谷に風が吹くと、山にぶつかって轟と音を立てる。木々が一斉にざわめき、風が止むと、静止画のように静かになる。

(集落のある谷の様子)

 山腹にひっそりと佇む産土神社をお参りしたあとは、B君がいつもの散歩コースを案内してくれた。林道に沿って、ただ歩く。道路脇に、岩壁が露出して、水が湧き出ていた。その暗がりから、蛙の声が聞こえた。一匹二匹ではない。掛け合いでもしているかのような不規則な鳴き声で、姿は見えない。よくあるケロケロという声とは違って、くぐもっていて、遠くから風に乗ってかすかに聞こえる、僧の読経のような音だった。思わず立ち止まって、耳を傾ける。山に水が流れていて、蛙がいて、鳴き交わしている。ただ、それだけで、どうということもないのかもしれない。でも、僕にはその音が、とても神秘的に響いた。まるで、そこには僕たち人間の、普段の水との関わり合いとは、全く違ったことわりが流れているかのように感じた。そして、その蛙たちは、それを知っている。知るということが、生きるということなのであれば、僕たちはそれを知らないが、蛙は、それを知っている。僕は、自分が然るべき人であり、然るべき用意があったのなら、そこに祠を作って、この水の精を祀っただろう。いや、それらしい装置がなかっただけで、それはすでに祠だったのかもしれない。

 その日の午後、二人に案内されて瀞峡という近くの景勝地を観光したあと、SさんとB君に、修験道に詳しいOさんという人がいるから、会って話をしてみたら、と提案され、彼の職場に向かった。
 そこは、自国で林業をしていた若い外国人のオーナーが十津川に移住し、杉の植林ばかりで手入れも行き届いておらず、自然としての機能を失ってしまった熊野の山の現状を見て、熊野の自然に触れながら、林業のあり方、環境のことを考えて欲しいという目的で作った公園施設だった。Oさんは管理人として働きながら、時期に応じて山に入る行者でもあるということだった。私たちが到着すると、Oさんは白い作業服を上下に来て、麦わら帽子をかぶり、駐車場で屈みこんで何やら作業をしている。
「こんにちは。SさんとB君に、Oさんが修験道にお詳しいということを伺って、お話をお聞かせ願えないかと思いやってきました」
「そうですか、よくお越しくださいました。私はここで作業をしているので、ご都合のよいときに、いつでもお声をかけてください」 
Oさんは、いわゆる荒法師のような、行者然としたところはなく、物腰の柔らかな、一見するとごく普通の人だった。私たちは食事を済ませ、少し園内を見て回ったあと、改めてOさんに声をかけた。
 ログハウス風の建物に案内され、テーブルに座って待っていると、Oさんが分厚いファイルを持って現れた。その中には、雑誌や新聞の切り抜き、本のページのコピーなど、おびただしい数の資料が綴じてあった。昔、地元の三島大社の由来について調べていたとき、たまたま知り合った西伊豆の神職の方が同じようなファイルを持ってきて丁寧に資料の説明をしてくれたことを思い出した。
 話は、古事記や日本書紀に書かれていない有史以前の日本の歴史や、地方に存在した王権、玉置神社が行場となった由来など、多岐に渡った。中でも印象的だったのは、Oさんが「権力に絡めとられないこと」というフレーズを、とても大切なことのように、何度も繰り返していたことだった。

 十津川村は険阻な山々を越えて行かなければたどり着けないという立地もあって、古来から中央の権力の手が届きにくかった。壬申の乱を起こした大海人皇子(後の天武天皇)に始まり、室町時代の南朝方、幕末の尊王派など、現体制へ反旗を翻す人々は、弾圧から都を逃れ、しばしば吉野に集い、十津川の人々の支援を受けた。吉野から大峰山を伝って熊野に至る「大峰奥駆道」を開き、日本に修験道の基礎を置いた役行者も、朝廷での讒言により伊豆に流されている。この生きるに厳しい山がちの土地は、どうやらそこに住まう人々に、反骨の精神と独立の気風を与えるものらしい。十津川村は、村といっても東京23区を超える面積を持っている。それでいて人口は、今も約三千に過ぎない。人里の占める割合はごくわずかであり、全域を山林が支配する土地である。そこでは文明の秩序よりも、山の秩序が優先されていたはずだ。そしていかに今日文明が発達し、都会では電気の光が地上の闇を覆っても、熊野の夜は幾千年前と変わらず、暗いままだ。

「私たちは、特定の組織や団体に属すのではなく、古神道の教えを、生活の中で実践しながら生きています。詳しくはわからないのですが、こうした独立した信仰者のことを、イスラム教ではハニーフというらしいです」
 このハニーフという言葉は、ネットで調べてみても、「アブラハムの宗教を信ずるもの」という意味を表す、という程度の情報しか出てこず、Oさんがどこからそういう理解に至ったのかはよくわかっていない。でも、トルコでスーフィ(イスラームの神秘主義者。アフリカからインドまで、各地を流浪して暮らした)の人たちと交流したことのある僕には、とても印象深い言葉だった。

(玉置山の登り口にある神社から)

 冒頭の玉置山に登ったのは、その翌日のことだ。B君は、地域おこし協力隊として、耕されないまま何年も経過した田んぼを自然農で再生したり、近隣の登山道の整備をしている。山頂の玉置神社へと参拝するには、かつては山を歩いて登る必要があったが、今では車でも行けるように道路が通じている。こうして古い信仰の道は、忘れ去られ、使われなくなってしまった。B君は、そこに僕を連れていってくれたのだった。

(道なき道)

(朽ちつつある橋)

 道の途中に小さな滝があったので、水垢離をとることにした。裸になって、滝つぼに入る。春先の水はまだ冷たい。滝に近づくにつれ、水の音が大きくなっていく。体が引き込まれる。その仮借のない勢いが心地良い。水の冷たさと勢いに、体が驚いているのがわかる。心臓がひっくり返りそうだ。

 (滝の様子。小さくても、容易に近づけないほど水の勢いは強い)

 僕は膝が悪いので、山を登るときは杖を持つようにしている。トレッキング用に作られた、現代的な、チタンの杖だ。持ち手は指に合うように設計され、全体の長さも調整できるようになっている。それでいて軽く、頑丈だ。
 B君は、自分で削り出したという白木の杖を使って歩いていた。自然のものとは思えないぐらい真っすぐで、丁寧に磨かれていた。
「それ、いいね」
「うん。それに、どこを持ってもしっかり手に馴染むから、すぐに持ち替えることができて便利だよ」
「確かに。『老子』に、削り出されたばかりの白木は、梁とか、柱だとか、まだ名前をつけられていないから、何にでもなれる。その自由なあり方を理想として説いた章節があるけど、それを思い出したよ。単純にどっちがいいかはわからないけど、僕の杖は、持ち手の部分が決まっちゃってるから、そういうアドリブは効かないな。面白いね」
「うん、面白い。僕もタオイズム(道教)の哲学は好きだな」
「僕も。自分は仏教よりもタオイズムの方が向いてるんじゃないか、って思うこともあるぐらい」
 僕がB君に話したのは、『老子』上篇の第十九章「素(そ)を見(あらは)し撲(ぼく)を抱け」に出て来る話だった。大学の講義で読み、この解釈を教えられて以来、「素朴」という言葉が好きになって、忘れたことがない。そして、アメリカ人のB君に、東洋思想の話ができることが、僕にはとても嬉しかった。

~後編に続く~

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