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《長編小説》小幡さんの初恋 第七話:気まずい二人

 月曜日に事務所で再会した鈴木と小幡さんであったが、土曜日のあのプールの一件があったせいか挨拶は妙にぎこちなかった。鈴木はあのプールの出来事の後で小幡さんと土日合わせて四回も偶然ばったり出くわしている事が気になり、彼女がそれに全て気づいていて、自分をストーカーのように見ていたらどうしたらよいのかと絶望的な気分になった。小幡さんはいつもよりずっと口数が少なく意図的に鈴木から目を背けている。鈴木はこの沈黙に耐えられず、今度の日曜日に息子が来るんだと小幡さんに話しかけたが、小幡さんは「あっそうなんですか。よかったですね」と愛想笑いですらない作り笑いを浮かべてすぐに鈴木から目を逸らした。

 それをパートの楢崎さんは見て二人に何があったのかと興味深々に眺めた。するとその視線が気に障ったのか小幡さんは立ち上がって楢崎さんの元に向かい、いささかキツい調子で楢崎さんが金曜日にしでかした大失態を責めた。事務所にいた他の連中はこのイライラ気味の小幡さんに驚いて、特に新入社員の丸山君など震え上がってしまった。

 しかし楢崎さんは平気の平左で小幡さんの説教を受け流し最後にこう切り返した。

「まぁまぁ私が悪いからしょうがないけど、あなたもそんなに眉間に皺寄せちゃダメよ!毎日怒ってたらすぐにしわくちゃの婆さんになっちゃいますよ!」

 これにはさすがの小幡さんも二の句が継げず、もういいです!と言って説教を切り上げてしまった。

 そうこうしているうちに昼休みがきて、事務所の連中が本日の電話当番である鈴木に次々にメモを渡して出て行った。いつもは事務室の隣の休憩室で食事を取るものもいるが、今日は皆外で食べるか、自宅に帰って食べるようだ。楢崎さんは自宅が隣なのでいつも自宅で食べている。小幡さんも近所なのでいつもは自宅に帰って食べている。しかし今日は何故か小幡さんはそのまま事務室に残った。事務室には鈴木と小幡さんの二人だけである。

 小幡さんは先程からずっと自席のPCを見つめたまま、無言で座っている。鈴木は小幡さんが土日にあったあの事件について自分を問いただすために事務所に残っているのだという事がわかりすぎるほどわかっていた。しかしどう対応してよいのか。あのプールでの出来事についてどう話したもんか。素直に泳ぎ上手いねと褒めてあげればいいのか。それが安全だと彼が小幡さんにそう言おうとした時、逆に小幡さんの方から話しかけてきた。

「あの……鈴木さん?鈴木さんはいつもスポーツセンターのプール泳ぎに行かれるんですか?」

 小幡さんは俯き加減で少し低めの声で聞いてくる。まるで尋問のようだった。小幡さんはこちらをチラチラ見て明らかに相手の反応を伺っている。

「いや、スポーツセンターの方にはあまり行かないんだ。いつもは公園の方に行ってるから」

「じゃあ、なんで一昨日はそちらに行かなかったんですか?」

 あなたはそこから疑っているのか!あの時自分はあなたがプールにいたことすら知らなかったんだぞ!しかし心でこう釈明してもしょうがない。人は疑おうと思えばいくらでも疑えるのだ。鈴木は若い頃の自分がたまたまとある蕎麦屋にいて、女性の同僚が店に入ってきた時偶然だねと挨拶したら物凄い目で睨まれた事を思い出した。もう正直に全部言おうと決意した。

 彼は小幡さんに一から全て話した。自分はサイクリングが趣味で毎週ずっと東の川の土手を走っているが、強すぎる日差しと気温でもう走れなくなった。それで体を冷やそうと近くにあったスポーツセンターのプールに行ったらそこに女性の泳ぎがあまりにも上手いので見とれていたら、突然その女性が上がってきた。それが小幡さんだった。だから全くの偶然なんだ。偶然はその後四回も起こった。一度あることは三度あるの慣用句にプラス1足したようなものだ。本来ならそこであなたに声をかけるべきだったのかもしれない。しかし、僕は逃げてしまった。それはあなたに変な目で見られたくなかったからだ。と、どうにか事実をありのままに(当然一部端折られているが)語りおえた。いくら事実そのままでもこんなバカな話を信じるものはいないだろう。そう思いながら鈴木は恐る恐る小幡さんの反応を伺った。

「うふ、ふふふ」と鈴木の話を聞き終わった途端、小幡さんは笑い始め、ツボにはまったらしくとうとうお腹を抱えて笑い出してしまった。

「よかったぁ!鈴木さんはやっぱり鈴木さんだった。私、正直に言うとプールで鈴木さんに変な視線を感じちゃったんです。初めは私もなんでここに鈴木さんがいるの?ってビックリしたんですけど、その後で冷静になったらいつもの鈴木さんと違う視線を感じたのを思い出してちょっと……。あの、私不細工だから男性からのああいう視線に晒されるの慣れてないんです。だから鈴木さんがそういう目で私を見ていたらすっごい嫌だなぁって思って。それに加えてあの後四回ぐらい何故か鈴木さんが背中を向けて私から逃げてるの見て、なんかおかしいって思って。最初はサイクリングスーツ姿で逃げて、次はスウェット姿で逃げて、三度目はジャケット姿で逃げて、最後は甚平姿で逃げて。どう考えたっておかしいじゃないですか。だから私すっごい腹が立って、鈴木さんに裏切られたような感じがしたんです。私ずっと鈴木さんを大事な相棒だと思っているし、そんな人に変な目で見られたくないって思ってるから。でもよかったです。これで一安心です」

 小幡さんはこう笑いながら喋り終わると不貞腐れたようなそれでいて甘えたような妙な顔で鈴木に言った。

「だけど、なんで会ったときに私に話しかけてくれなかったんですか?あの時素直に話しかけてくれれば私だってこんなに悩まずに済んだんですよ。鈴木さん、私に謝ってください!」

 鈴木は小幡さんの初めて自分に見せるこの親しみを込めた表情と言葉にドキリとしてしまった。完全に自分を信用しきった目だった。それは相棒としてのものなのか、はたまた父親代わりとしてのものなのか、わからない。

「いや、すまなかったね。あなたのような若い女性とどう接していいのかわからなかったんだ」

「そうなんですか?鈴木さんそんな人見知りのタイプに見えないんだけど。でもまぁ許してあげます!」

「ありがとう」

「話は変わりますけど、息子さん、日曜日にこちらにいらっしゃるんですか?」

「そ、そうだけど、そんな事どうして知ってるの?」

「鈴木さん、朝ご自分でおっしゃりませんでした?」

「いや、そうだっけ?話したかな?そう、息子は離婚した妻のとこにいるんだが何かっていうと僕に会いに来るんだよ。とっくに成人して養育義務なんか全くないのにさ」

「えっ、鈴木さんて離婚されてたんですか?」

「でなきゃ一人で住んでないよ」

 鈴木がこう言った時小幡さんは少しさみしそうな表情をした。

「そうなんですか。鈴木さんは理想の旦那さんで理想のお父さんみたいな人だと思うんですけどね。残念ですね」

「まぁ、実際は理想の旦那にもなれず理想の父親にもなれなかったけどね」

 二人の間に少し気まずい空気が流れた。しかしそれを察した小幡さんが話題を変えて鈴木に金曜日にやる新入社員の丸山の歓迎会の話を振った。

「そういえば鈴木さん、丸山くんの歓迎会いらっしゃるんですよね?」

「ああ、一応行くつもりだが」

「予定が変わらない事願ってます!今年は旅館でやるんですよ。鈴木さん旅館に上がった事ないですよね?」

「ああ、社長の自宅だろ?全くないね。だけどうちの社員全員で押しかけて大丈夫なのかね。あそこは社長のお母様や奥さんや子供もいるんだろ?」

「大丈夫です!おばあちゃんたちは離れで寝てもらうし、それにあそこの屋敷の大広間って本当に広くて、ホント旅館かホテルかっていう感じなんです。だから一応はソーシャルディスタンスは守れるし、そのための準備も万端に整えてますから無事に歓迎会をやり遂げる事は出来ると思います」

 その時事務所に社長が入ってきた。彼は自宅で昼食をとっていたのだ。彼は小幡さんと鈴木が二人ででいるのを不思議に思ってこう言って二人をからかった。

「よぉ、お二人さん。二人っきりで話しているとこ、なんだけどもう時間だぜ。みんなそろそろ帰ってくるからな」

 小幡さんと鈴木は社長の言葉に何故か照れてしまった。社長は続けて鈴木に聞いた。

「今日は電話なかったですか?」

 鈴木は社長の言葉を聞いて自分が電話番だった事を思い出して思いっきり動揺した。

「多分なかったと思いますが……」

「多分?」

 するとすかさず小幡さんが割って入って鈴木を庇った。

「す、すみません。社長!私が鈴木さんの仕事を邪魔してしまってたんです!でも、多分電話はなかったと思います」

 この小幡さんの弁明を聞いて社長は高らかに笑い始めた。

「おいおい二人とも多分かよ。まぁいいや、小幡さんの多分はほぼ絶対と同じことだから。とにかく、おしゃべりに夢中になるのもいいけど、業務中であることを忘れないように。いいね」

 二人はそろって社長に謝ったがその光景を昼食から事務室に戻ってきた社員が見て優秀な二人が叱られているのを見て珍しく思った。それから社長は2階に上がったが、しばらくして小幡さんはあっと声を上げて鈴木に言った。

「そうだ。鈴木さんそろそろ休憩ですよ。早くご飯食べないと」

「でも、あなたもご飯食べてないだろ?あなたも休憩とらないと」

「いいんです、いいんです。鈴木さんは電話番、私は暇つぶしですから」

 そうかと鈴木は小幡さんに向かって頷くと昼食に行くために外出しようとしたのだが、その時小幡さんが駆け寄ってきて事務所の玄関で鈴木の耳元に近付いてこう囁いたのだ。

「あの、土曜日のプールの事、誰にも言わないでくださいよ。絶対ですよ!」

 こう囁いた後で小幡さんは妙に悪戯っぽい表情で鈴木を見送った。鈴木はその小幡さんの表情に、いわゆる二人だけの秘密めいたものを感じ、何かいけないことをしているような、だが、それでも嬉しいようなそんな思いがよぎった。






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