見出し画像

ラブレターをフローベールに学ぶ

 ギュスターヴ・フローベールといえば小説家の中の小説家として文学史に燦然と輝く偉人である。フローベール以降の小説家はすべて彼の影響下にあるといっていい。彼が後のヘンリー・ジェイムズやプルースト、そしてジェイムズ・ジョイスのような先進的な作家に影響を与えたことは有名だが、その他のエンタメに至るまで彼の影響を受けていない作家はいないといっていいぐらいだ。今日我々が親しんでいる小説の形式を作り上げたのは他ならぬフローベールであった。彼が辛苦の果てに生み出した数々の技法は勿論、フローベールの芸術に対するストイックな姿勢は、遠く離れた我が国の自然主義以降の作家も含めて、後代の全世代の文学者の模範になっている。

 フローベールの以前の小説と以後の小説がどう違うか。まず挙げられるのが小説の中から作者の存在を消した事である。彼以前の小説は作者が物語を仕切るものであった。語り手が一人称の場合は勿論、三人称の場合も度々作者が出て来て物語を語り出したり、結末の予告めいたことを述べたりしていた。しかし現代の、エンタメでもよいが、小説にはあまり作者が登場する事はない。物語を進めるのはあくまでも登場人物であるからだ。

 フローベールがいかに作者を物語から消したかについては、素晴らしいことに彼のデビュー作にして永遠の古典である『ボヴァリー夫人』に詳細に書かれている。この小説はまず『私たち』という複数形の語り手が登場し、登場人物であるシャルル・ボヴァリーの少年時代を語りだす。しかしシャルルが成長してゆくに従って語り手は出てこなくなり、主人公のエマが登場する頃には語り手はすっかり消えているのだ。小説はそれからエマの自殺に至るまでの生涯を綴っていくのだが、もはやそこには作者は登場しない。ただカメラのように登場人物を映し出すだけである。このカメラのような視線こそフローベールが小説にもたらしたものであった。小説は語るものではなく描写するものへと進化したのである。彼は物の色は状況において変わる物だということを初めて書いた作家でもあった。小説を読んでいるとエマの目の色はある場面では青いと書かれているが、別の場面になると茶色と書かれているのに出くわす。この目の色の違いに昔のとある評論家がフローベールは色彩に無頓着であったいう評をしている。しかしフローベールは色彩に無頓着であったわけではなく光の当たり具合の変化によって色が変わる事を書いたのだ。このフローベールの発明によって小説の描写はそれまでの古典的な葉は緑、りんごは赤などといった平板で単色なものから立体的で多彩なものへと変わったのであった。このようにフローベールは小説から作者の存在を消す事で小説の世界をありのままに映し出し、さらに描写を細部にまで施す事でその世界を立体的で多彩に見せる事でこの小説の不倫の果ての人妻の自殺という陳腐な主題を全く新しい芸術を創造さた。フローベールはこのほかにも様々な技法を発明する事で小説を革新する事でそれまで大衆の読み物でしかなかった小説を詩と同レベルにまで高めた。彼によって小説は初めて芸術として成り立つようになった。フローベールは形式を一新する事で文学のあり方を変えてしまった。彼は小説を作者の思想の伝達道具ではなく、世界観を細部にまで徹底的に作り込む事で新しい文学を作り上げたのであった。フローベールの小説は文体のみで自立した空間であるといっていい。そこには作者の人となりも思想もなくただ言葉のみがそこにある。彼ほど言語芸術を深く追求した作家はいない。

 その苦悩ゆえかフローベールの作品は極めて少なく、長編は五作しかない。しかしそのたった五作の小説は彼が呻吟の果てに生み出されたものであった。彼は書き直しに書き直し、毎日ここに当てはまる言葉が見つからぬと嘆いた。彼が悩みの果てに書き上げた20文字の一文は他の凡庸な作家の10万文字分、ラノベ作家あたりだったら一生かかっても書ききれないほどの数に匹敵する。フローベールの苦悩はいわば発明家の苦悩だ。後のプルーストやジョイスも彼あってこそあれだけの作品を書けたのだ。


 そのフローベールのような文章を書かんとするものが今ここにいた。とはいっても彼は無数にいる小説家の雛でもたまごでも精子でも卵子でもない。ただの大学生である。彼は生まれて初めて女性にラブレターを書こうとしていたのだ。彼は今まで文学と同棲をして毎夜同衾しまくっていろんなものを出していたような妄想のプロであったが、現実の恋愛に関しては全くの童貞どころか、高村光太郎の詩集のタイトルを見ただけで顔を赤らめてしまうぐらいほど恋愛にはうぶな人間であったのだ。しかしその彼が現実の女に恋をしてしまった。とはいっても彼には現実の恋愛経験がないのでどうしたらよいか全くわからない。それにである。こんな事をいうのはなんだが、彼はとんでもないブサイクであった。合コンに連れて行こうものなら女の子が裸足で逃げ出すぐらい酷いものだった。そんな彼が告白したところで女の子は恐ろしくなって逃げ出してしまうだろう。だが彼は女を諦めることは出来なかった。それで激しく苦悩していた彼は突然フローベールの名前を思いついたのである。彼は大学でフランス文学を専攻しフローベールを学んでいた。毎日鸚鵡のようにフローベールと繰り返すほどフローベールに打ち込んでいた彼がラブレターを書くにあたって彼を参考にしようと思ったのは必然であった。フローベールの方法なら自分の存在を消して文章のみの力で相手に思いを効果的に打ち明けることが出来る。文章それ自体が生命であるようなフローベールの文章なら自分が処置仕様のないほどの不細工でも女はきっと彼の思いを受け入れてくれるはず。大学生はそう考えると早速フローベール全集を片手にラブレターを描き始めた。

 ラブレターの執筆は著しく困難を極めた。自分の好きな女の部分の描写が全くうまくいかないのだ。書いているとどうしても自分の主観が入ってしまう。まるで花のような君。ああ!ダメだ!花も陳腐極まりないが、大体どうして人間が花なのだ。誰が花と認識するのだ。それはただの僕自身の主観ではないか!こんなバカげた比喩を読んだら彼女はきっと不細工な僕を思い浮かべて手紙を焼き捨てるだろう。それはダメだ。その黒い瞳って部分もダメだ。全く欠伸が出るほど古典的で陳腐な描写だ。フローベールのあの見事に色彩の変化を捉えた描写に学ぶんだ。ああ!君の瞳は教室では灰色がかった黒だが、校庭に出た途端光がさして明るい茶色に変化する。そして夕暮れに照らし出されるとオレンジの漆黒に近い焦茶色になってゆく。ああ!ダメだ!こんな描写じゃ何を言わんとしているか全くわからない。目の色の描写だけでページ数を大分割いてしまうじゃないか。

 大学生はボヴァリー夫人だけではなく、他の感情教育やサランボーや聖アントワーヌの誘惑やブヴァール・ペキュッシェなども参考にした。しかしそれは全くためにならない感情教育であり、文学から遠く離れてシルヴェスター・スタローンになってしまったサランボーであり、誘惑に乗って無修正動画を見てしまったアントワーヌであり、このラブレターを書くためにこうして無駄に苦悩している様はいろんな事に挑戦しては挫折しているあの書記のブヴァールとペキュッシェの二人そのままであった。

 しかし自分にはどうしてこう文才がないのか。いやもしかしたら自分があまりにフローベールに囚われすぎて周りが見えなくなっているのかもしれない。そう考えて大学生は一旦フローベールから離れて他の作家の事を思い浮かべた。例えばあの変身を書いたカフカはフローベールに多大なる影響を受けて客観性のある文章を書くために法律や役所言葉を参考にしたという。ならば自分もそれを参考にして主観の介在のしようのない法律の言葉でラブレターを書いてみよう。僕のあなたに対する思いは法に則る正当な権利であり、何人にも犯すことの出来ないものである。ああ!ダメだ!こんな脅迫めいた文章など読んだら彼女は手紙を持って交番に駆け込んでしまうだろう。カフカでも全く使えない。フローベールが無理ならジェイムズやプルーストでも同じだ。他にフローベールの影響を受けた作家の中で僕に真似ができそうな奴はいないのか。客観的で簡潔に相手に思いを伝える事のできる文章を書く作家はいないのか。彼は考えに考えた末ヘミングウェイの名前を思いついた。このハードボイルドの生みの親とも言われる大作家はフローベールを学んであの簡潔の極のような文章を編み出した。そうだ。ヘミングウェイの文章なら僕にも真似ができる。客観的に我が思いを相手に伝える、そんな文章が書ける。出来るだけ簡潔に、相手にわかりやすく。彼はヘミングウェイの短編集をパラパラめくり一瞬でラブレターを書き上げた。

『拝啓、あなたが好きです』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?