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命懸けの第九

 現代最強のシンフォニストと呼ばれる作曲家大来響は、長い苦闘の末とうとう交響曲第九番を完成させた。彼は交響曲第一番で華々しくデビューしてから、現代の作曲家としては全く異例な事であるが、交響曲だけをひたすら書き続けた。その交響曲の大半はベートーヴェンやマーラーの向こうを張った大規模なものであり、聴衆はとうとう我が国から偉大なる交響曲が生まれたと彼とその交響曲を絶賛した。人はCMや映画のサントラどころかコンチェルトや管弦楽曲すら書かぬ大来を現代のマーラーと称えた。大来は世間が自分をあの最大のシンフォニストであるマーラーに喩えられるのに誇らしさを感じたが、同時にバツの悪さを感じていた。自分が偉大なるマーラーに喩えられるなんてマーラーに対して申し訳がない。まだ自分は彼の高みに全く辿り着いていないのだから。

 彼はいつもこう謙虚に自らを律しながら八つの交響曲を書いていた。これらの交響曲は彼の人生そのものであった。二十代半ばで書いた交響曲第一番はマーラーの『巨人』のような若々しい勢いと切ない叙情が横溢する傑作であり、彼はこの曲で華々しくデビューした。それから第二から第八まで彼はマーラーのように楽想を果てしなく広げて自らの芸術を作り上げていった。これらの楽曲は聴衆から絶大な支持を受け、また大来自身もその出来に満足したが、だがより深く芸術を求めるこの交響曲作家はまだ満たされぬものを感じていた。まだ足りぬ。偉大なる交響曲作家になるにはさらなる頂へと登らねばならぬ。こんなんで満足していたらとてもベートーヴェンやマーラーに恥ずかしくて天国で顔など向けられない。次の第九こそ絶対に山頂へと登り詰めてみせる。ベートーヴェンが命を懸けて歓喜を鳴らし、マーラーもまた同じようにして来世を奏でたように、俺もまた命を懸けて第九を書かねばならぬ。俺の四十年の生きた証を全て第九に注いでやる。

 こうして第九に自らの作曲家としての全てを注いだ大来響だったが、その創作は今までの交響曲の作曲とは比較にならぬほど苦労した。大来はベートーヴェンのように聞こえぬ音を頭から引き出そうと部屋の壁に何度も頭をぶつけた。楽譜を何度も破り、そのたびにまた壁に頭をぶつけた。その苦悩の果てに彼はようやく第九番交響曲を仕上げたのだった。大来は交響曲を最後まで書き上げた瞬間思わず絶叫した。この交響曲は彼自身が深く望んでいたベートーヴェンやマーラーの第九に匹敵するような大傑作であった。大来は楽譜を読み頭の中で己が傑作を何度もリピートしていた。ああ!この傑作が演奏されたら確実に俺は本当にベートーヴェンやマーラーに並ぶことが出来るだろう。いや、浮かれすぎて楽譜をなくしてしまう前に早く誰かに読ませねばならぬ、いや聴かせねばならぬ。彼はそう決意すると早速音楽関係者に電話をかけまくった。

 音楽関係者の誰もが大来響の第九の楽譜を読んでこれは間違いなくクラシックの歴史に残る傑作だと褒め称えた。音楽家、オーケストラ団体、音楽出版社、コンサートの興行主、マスコミ関係者。皆口を揃えてすぐにコンサートを開催しなければと勧めた。大来の書いた第九が途方もない傑作だという噂はクラシック関係者の間に瞬く間に広がり、公式に大来響の交響曲第九番の完成とそのコンサートの開催が発表されるとクラシックに無関係なマスコミさえ一斉に大来響を取り上げた。クラシック関係のメディアは第九番に相応しい交響曲を書いた大来響を褒め称え、その他マスコミはクラシックを全く知らない視聴者のために大来響とその交響曲の偉大さをわかりやすく取り上げた。大来は世間の熱狂ぶりに興奮しインタビュアーの質問にこう捲し立てた。

「僕は命を懸けてこの第九を書いた。もう死んだっていい」

 大来響の交響曲第九番の初演についていろんな所で噂が飛び交った。コンサートの会場は東京芸術劇場じゃないか?そうなら交響曲を演奏する会場として素晴らしい場所じゃないか。いや恐らく武道館だろう。これだけ注目されているなら一万人なんてすぐに集められる。世間的にも武道館が一番話題になる。と世間がこの第九の話題で大騒ぎになっている時、さらにそれに火を注ぐようなニュースが流れた。この第九の指揮者があのカリスマ指揮者の大振拓人だと発表されたのである。この事がニュースで流れた時クラシックファンは皆驚いた。大振は日本のクラシックをフォルテシモに軽蔑しており、常々日本人にはたった一匹のキリギリスもいない。みんなゴキブリみたいな音しか出せないと軽蔑しまくっていた。その彼が他ならぬ日本人の曲を演奏するとは。マスコミは大振拓人に何故ゴキブリと軽蔑している日本人の曲を演奏するのですかと聞いたが、その質問に大振は今まで大来なんぞゴキブリ以下だと思っていたが、この交響曲の楽譜を読んで自分が間違っていた事に気づいた。この曲は俺が演奏せねばならぬ。この偉大なる交響曲を演奏できるのは他のゴキブリではなく俺のような天才だけだと言い放った。カリスマ指揮者の大振のこの発言で大来響の交響曲第九番は俄然注目された。それから皆早くコンサートの会場と日程の発表を今か今かと待ち侘びた。

 そんな騒ぎの中、話題の第九の作曲者大来響は恋人のチェリストである白鳥アンナと久しぶりのディナーを楽しんでいた。白鳥とは付き合って四年になるが彼女との結婚は特に考えていなかった。大来はお互い自立した音楽家同士。結婚したら却って互いの音楽家としての生活を壊してしまうかもしれない。それなら結婚などしないでこのままの関係で。と彼女との関係を考えていた。

「あなたの周りなんか凄いことになってるね。町中があなたの第九の噂で持ちきりよ」

 とワイングラスを片手に白鳥アンナが向かいの大来響きに向かって話しかけた。しかし大来は彼女に向かって不機嫌そうに答えた。

「俺は芸能人でも女子供向けのカリスマ指揮者でもないんだよ。ただのクラシック作曲家なんだ。ベートーヴェンやマーラーみたいにクラシックしか書けない人間なんだよ。僕は自分の第九がテレビやネットで取り上げられるのを見るたびになんだか自分の裸を盗撮された気分になるんだ。僕の命をかけた第九がさ、こんな風に晒しものにされているのを見ると本当に怖くなる。もしかしたら初演が大失敗しちまうんじゃないかって。だって一般大衆ってのはろくに芸術に理解のない連中ばかりじゃないか。そんな連中に僕の崇高な第九を理解できると思うかい?しかも指揮があのフォルテシモ馬鹿の大振拓人だろ?君あんな女子供向けのフォルテシモバカ指揮者に俺の第九がまともに演奏出来ると思っているのか?」

「そんな悪口ダメよ。大振くんそれ聞いたら怒って指揮降りちゃうかもしれないでしょ?ここまであなたと第九が注目されているのに、それをみすみす潰すつもり?あなたの第九を聞きたがっているのは一般人だけじゃないのよ。本物のクラシックファンだって第九の演奏を待ち焦がれているんだから。私の友達なんかも最近あなたの第九のことばかり聞いてくるのよ。どんな曲なんだって。お願いだから楽譜のコピーを融通してくれないとまで頼んでくる人だっているのよ。あなたもそれぐらいわかっているでしょ?」

「ああ!わかっているさ。だからわかっているが故に不安なんだよ。あのミーハー向けのバカ指揮者が演奏中にフォルテシモとかやり出したら真面目な音楽ファンは呆れて席を立つし、大振ファンのミーハーバカ女は俺の第九なんか忘れてバカ指揮者に黄色い歓声あげてコンサートが無茶苦茶になっちまう。俺はそれが怖いんだよ。俺の全音楽家人生を懸けたこの第九が無視されまくられるのが」

「あなたそんな事にビビってるの?たかが指揮者のパフォーマンスに負けるぐらいあなたの第九は弱い曲なの?大体大振くんは私たちの後輩でしょ?下手したら息子ぐらいの歳じゃない。あなたの音楽家人生はそんなガキのパフォーマンスに負けるぐらいスカスカの人生なの。もっと堂々としなさいよ。あなたは今の日本で最強のシンフォニストなんだから」

「お前は強いよな。さすが毎回千人単位の聴衆の前で演奏するだけあるよ。だけど俺は作曲家なんだ。作曲家ってのは暗い部屋で頭を抱えて楽譜を引き破って明かりが差した頃にようやく楽譜を一枚書く人間なんだ。いつも強がっているけど実はいつも不安でいっぱいなんだ。俺の曲が無視されたら、みんなが演奏中に席を立ったらって交響曲の初演のたびにそんな不安に悩まされるんだ。今回はそれがいっそう酷くなって毎日夜に一人でいるのが怖くなるぐらいだ。確かにいい歳してこんなガキみたいな不安に悩まされるなんてどうかしている。だけどこの第九はそれぐらい人生を懸けた曲なんだ。わかってくれよこの不安を」

 大来響は白鳥にそう不安をぶちまけると頭を抱え込んだ。白鳥は長年の恋人が珍しくストレートに己が不安をぶつけてくるのを聞いて大来が記念すべきデビュー曲『交響曲第一番』の初演直前の時のことを思い出した。やはり大来はあの時もデビュー曲の初演への不安から白鳥に不安をぶちまけていた。その時彼女は彼を宥めるために自分が日頃見てもらっていた占い師を紹介してあげたものだ。

「ねぇ、響。占い師のおばあさん覚えてる。ほら私が昔あなたに紹介した」

 占い師と聞いた途端大来は老婆の顔を鮮明に思い浮かべた。あの頃不安に苛まれていた大来は早速占い師の元に向かい占ってもらったのだが、この占い師はおばあさんであるがクラシックに精通しており彼の言うことはほとんど理解できた。だから彼は占い師に向かって自分がベートーヴェンやマーラーの影響を受けていることを詳しく話し、挙げ句の果てに楽譜まで見せて自分の曲が成功するかと尋ねたのだが、占い師は楽譜をじっくり読んで感激したのか目を潤ませてこれは大傑作です!この交響曲第一番は大成功してあなたに交響曲作家としての大きな名声をもたらすでしょうと断言してくれたのだ。占い師の予言は見事的中し大来は見事現代最強のシンフォニストと呼ばれるようになった。しかし彼は占い師とはそれ以降会う事はなかった。大来は交響曲第一番が大成功すると早速礼を言うために占い師に連絡をとろうとしたが、占い師は忽然と彼の前から消えてしまったのである。占い師の行方は白鳥にもわからず、二人で探したが全く見つからなかった。占い師は引退したのか、はたまた病で占いができなくなったのか。その後占い師の消息はつかめず、完全過去の思い出となっていた。しかし今、その占い師の顔があり得ないぐらいはっきりと思い浮かんだ。

「ああ覚えているさ。あの時あの人に占ってもらわなかったら俺は今作曲家としてここにいない。あの人はどんなカウンセラーよりもはるかに優秀だった。今頃何してるんだろう。だけどあれからだいぶ年月が経ったし……もしかしたらこの世にいないかもしれないな」

「残念だわ。あのおばあちゃんがいれば今のあなたを救えるのに」

「ありがとう。思えばこんなに不安に苛まれるようになったのはずっと一人でいるせいなのかもしれない。目の前にいる誰かがそばにいれば……ひょっとしたら不安なんて消えてしまうかもしれない」

「それってひょっとして……」

「いや、今言った事は忘れてくれ!今のは不意に漏らしたため息のようなものだ」

 大来はそう言うと思わず白鳥から目を逸らした。白鳥はその少年のような態度の大来を見て顔を綻ばせた。


 とうとう大来響の交響曲第九番のコンサートの会場と日時が発表された。場所はクラシックコンサートとしては極めて異例な事に武道館である。そのニュースが流れた途端各メディアは一斉に沸き立った。マスコミは揃って大来響と彼が今まで書いた第八番までの交響曲を取り上げ、来るべき第九はこれらの交響曲を遥かに超える大傑作になると煽りに煽った。そしてチケットが発売されるとクラシックコンサートであるにもかかわらず一瞬でソールドアウトになった。これは勿論指揮者の大振拓人の人気もあるだろう。だが今回のコンサートに関しては大振よりも作曲家の大来の方が大きく取り上げられていた。

 世間のこの騒ぎを見て大来の不安はますます大きくなった。ああ!俺の第九が傑作であるのは間違いないが、指揮者はあのバカフォルテシモの大振拓人なのだ。アイツが目立とうとして俺の曲を無茶苦茶にしちまったら俺は作曲家として破滅する。ああ!どうしたらいいのだ。大来はなんとなく乗った地下鉄の中でずっとそう考えていた。しかし電車が止まった時、ふと顔をあげて駅の看板を見たら全く知らない駅名であるのを見て彼は驚き慌てて電車を降りた。

 この見知らぬ地下鉄の駅のホームは寂れて乗降客も少なかった。大来はふとこの街を散策したくなった。東京の山の手に生まれた彼は郊外なるものに一度も足を踏み入れたことがなかった。それでたまには貧民どもの生活を覗くのも悪くはないとふと思ったのだ。彼は自分のいやらしい上級国民的な考えに苦笑いをして改札口へと歩き出した。

 地上出口を出た大来の目に飛び込んできたのは薄汚い街の光景であった。彼は街のあまりの汚さに思わず目を閉じたが、しかしそれでは歩けないと勇気を持って目を開けた。あたりには強烈な原色の服を着た男女が屯していた。しばらく歩くとド派手な看板の下に行列が並んでいるのが見えた。そのド派手な看板には『マダム節子の占いの館』と書かれている。大来は看板の名前を見て驚いた。その看板に書かれた店の屋号はかつてお世話になったあの占い師の店と同じ名前だったからである。

 大来はどうせ別の人間がやっているのだろう。足を止めても時間の無駄ださっさとこんな薄汚い街からおさらばだと思って建物を通り過ぎようとした。しかし何故か引き止められてしまった。もしかしたらあの人なのかもしれない。やっぱり入ってみよう。別人でもいい。占い代なんかたかが知れている。占い師が別人だったら「まるで見当違いでしたな。あなたは本当に占い師なのですか?」なんて嫌味言って札投げつけて出ていけばいい。とにかく入るだけ入ってみよう。そしてもし本人だったらあの時自分を救ってくれたことへの感謝と、第九の初演がが成功するかを占ってくれと頼み込もう。大来はそう決めると、ホステスやキャバ嬢たちの後ろに並んだのであった。

 周りに並んでいるホステスやキャバ嬢はどうやら大来のことを全く知らないようであった。彼はその事に安心したが、同時に自分がマスコミから言われているほど顔が知られていない事に軽い不安を覚えた。こんなバカどもに自分のことなど知られたくないが、しかしこうして実際に自分がさほど知られていないという事実を目の当たりにすると、妙に不安になる。やはり自分の第九はあのバカフォルテシモ指揮者大振拓人が演奏するから注目を集めているに過ぎないのか。またしても不安が頭をもたげてきた。第九が失敗したら俺はもう終わりだ!しかしここにいる占い師があの人だとしたら、何故こんな汚い雑居ビルで店なんかで店を開いているのだろう。このビルは本当に派手な原色で覆われている。ああ!あの人の店は高級ビルの一室で躾のいいスタッフを雇っていたのに!

「ちょっとおじさん!あなたさっきからなんでぼうっと突っ立ってんのよ。順番で呼ばれてるじゃん。さっさと中に入りなさいよ!」

 後ろから不細工な女が文句を言ってきた。大来はこのブタ!貴様どこの養豚場から家出してきたんだ!今すぐ自宅の養豚場の電話番号教えろ!電話して飼育員に今すぐ貴様を引き取らせてやる!と怒鳴りつけてやりたかったが、不細工女の後ろに怖そうなお兄さんがズラリと並んでいるのを見ると冷静になり、すいませんと腰を低くして深く頭を下げ小走りに店内へと入った。

 店内に入ると受付の汚いギャルに用紙を挟んだボードを差し出され、用紙に名前と悩み事を書くように言われた。大来はこの文字通りの汚ギャルの下品な格好を見て占い師は明らかに別人だとため息をついた。あの人がこんなカビみたいな汚ギャルを雇うはずがない。彼は腹立ち紛れに名前と適当な悩み事を殴り書きで書いて汚ギャルにつき返した。そうしてしばらく他のキャバ嬢たちと一緒に並んで待っているといきなり自分の名前が呼ばれた。大来は正直に本名を書いたのでもしかしたら自分があの話題の作曲家だと大騒ぎされるかもと焦ったが、しかし誰も反応しなかった。彼はあんまりの反応のなさに頭に来て心の中で文化的素養のない野人ども罵しりながら立ち上がった。中に入ってあの人じゃなくてどっかの知らないババアだと確認したらさっさとこんな店出て行ってやる。占いなんか不要だ。入って札束ぶちまけてそれで終わりだ。とイキリ立ってドアを開けたのだが、彼はドアを開けた瞬間衝撃のあまり立ち尽くした。なんとそこには若き頃世話になった恩人がほぼそのまま姿で座っていたからである。

「あなた。もしかして大工興さんでらっしゃいます?

 マダム節子は昔そのままの上品な口調で話しかけてきた。ああ!名前も相変わらず間違えているではないか!

「そうです!マダム!あの前も勘違いしていましたが、僕は大工じゃなくておおくるひびきですよ!ああ!まさかあなたに会えるとは思わなかった!」

「あらあら、すっかり有名になって。今じゃテレビがみんなあなたを追っかけているではありませんか」

「僕はあなたに占ってもらった通り交響曲第一番の初演が大成功したので礼を言おうとずっとあなたもよくご存知の白鳥アンナと一緒にあなたを探してたんですよ。だけどあなたは突然消えてしまった。一体どこに言っていたんですか?」

 するとマダム節子は突然涙を潤ませて大来に向かって語り始めた。

「あの時二十歳のホストにハマって五億円ぐらい貢いでしまったの。全財産すっからかんでビルもマンションもすべて失ってしまったわ。だけど捨てる神あれば拾う神ありって言葉は本当よね。私のお客さんたちが穴だらけの木造アパートでひもじく暮らしていた私を見つけてあなたを必要としている人はまだたくさんいるって言ってくれてここに店を作ってくれたの。こんなおばあちゃんなのに、それでもあなたじゃなきゃダメだって言ってくれて!」

 語り終えるとマダム節子は両手で顔を覆って号泣した。大来はマダムの言葉に衝撃を受けて倒れそうになった。確かあの時の彼女はもうとっくに還暦を過ぎていたはず。そんな彼女が二十歳のホストに五億円を貢ぐほどハマるなんて。彼は女の性が恐ろしくなって足が震えた。

「で、大来響さん……でしたっけ。今日はどういうご相談なの?ボードにはハッキリと書いてないけど何か深刻な相談事でもあるんでしょ?」

 さすがマダムであった。一目で自分の悩みを見抜いてしまった。今度は大来が泣く番であった。彼は泣きながら正直に第九の初演が成功するかあなたに占って欲しいと訴えた。

「まぁ、それは可哀想。それはそうよね。命懸けて書いた第九が失敗に終わったら、あなたはどうしたらいいかわからないわよね。いいわ。あなたのために占ってあげるわ。ねぇあなた今日は第九の楽譜持ってない?」

 大来はマダムが言い終わらぬうちに鞄の中から第九の楽譜を差し出した。彼は第九を書き上げてから誰かに大傑作の楽譜が盗まれるかも知れぬという強迫観念に取り憑かれていつも肌身離さず楽譜を持ち歩いていたのだ。彼は今その楽譜を、類枚稀なる占い師であり、またクラシックを誰よりも理解する具眼の士であるマダムに読ませて占ってもらいたかった。この第九が真の傑作であるか。そしてこの曲の初演は大成功するか。マダムは楽譜を手に取るとゆっくりとページを捲って読み出した。そして静かに大来に楽譜を返すと目を潤ませて言った。

「大来さん、なんて素晴らしい曲なの?この第九は間違いなくクラシック史に燦然と輝く大傑作になるわ!第一楽章の重苦しい第一主題、続いて波を打つように突然開始される第二主題!ああ!なんて素晴らしいの!第二楽章の苦悩を鎮めるかのように静かに鳴るアダージョはベートーヴェンやマーラーを超えているわ!第三楽章のスケルツォは運命の崖を目指して駆けて行く高揚感に満ち溢れているわ!そしてとどめの第四楽章!私はこの楽章の楽譜を読んだ瞬間あなたがこの楽章を書くためにこの第九を書いたんだって一瞬で気づいたわ。崖から飛翔する男を讃える神々の力強いティンパニの打撃、続いて鳴り出す男を天国から地底へと導いてゆくヴァイオリン!そして最後に闇を抜けた男を讃える全楽器による歓喜と恍惚の大合奏よ!あなたはすごいものを書いたわ!クラシック史にあなたの名前は永遠に刻まれるわ!」

 マダムのこの感想は大袈裟でもなんでもなくこの第九に対する最も的確な評論であった。あまりにも正鵠を得ていたので大来は驚いて言葉すら発せなかった。しかしそう褒めちぎった後、マダムは急に暗い表情になった。

「だけどこの曲は何か悪いものが憑いているの。ねぇ大来さんこの水晶見てくれない?」

 水晶をみろと言われても占いの素人の俺に何がわかるのか!悪いものが取り憑いている?やっぱり大振拓人か!あのフォルテシモバカが結局この曲を台無しにしちまうのか!大来は震えてマダムに問うた。

「まさかバカフォルテシモ指揮者の下手くそな演奏のせいでコンサートが大失敗に終わるって事ですか?」

 マダムは食い入るように答えを待つ大来を気の毒そうな目で見て口を開いた。

「そうじゃないわ。コンサートは大成功でネットでコンサートを観た世界の人たちも大絶賛してあなたは一躍世界の大作曲家の仲間入りをするわ。だけどね」

 ここでマダムは話を一旦止めて真芯に大来を見つめた。

「ねぇ、大来さん。あなたもクラシックの作曲家なんだから第九のジンクスについてはご存知よね。ベートーヴェンもマーラーも結局は第十番交響曲を書けなかった。マーラーは第九のジンクスを知っていたから第九の代わりに『大地の歌』なんて交響曲を書いてジンクスけら逃れようとしたけれど結局第九のジンクスに囚われてしまった。真面目な作曲家にとって交響曲は命を絞りとってしまうものなのよ。他にもブラームスやチャイコフスキーが交響曲を書いたけれど彼らは第九すら書けずに力尽きたわ。作曲家が一生の間にかける交響曲はどんなに頑張っても九つまで。九つ書いた途端に作曲家は命果ててしまうのよ」

「何故いきなりそんな迷信を話し出すんですか?そんなもの現代ではただの笑い話じゃないですか?大体ハイドンやモーツァルトは一生の間に何十何百と交響曲書いているし、僕たち現代の作曲家の中にだって同じくらい交響曲を書いている奴がごまんといるんです。そんな迷信は一時期信じられてきた俗説にすぎませんよ。大体あの二十世紀最大のシンフォニストであるショスタコーヴィチは交響曲を十曲以上書いているじゃないですか?」

「まずハイドンやモーツァルトは芸術作品として交響曲を書いていませんわ。彼らは請われるがみに交響曲を書いていただけよ。それとショスタコーヴィチだけど、彼の第九はどんな曲だった?彼の第九はベートーヴェンやマーラーのような深遠な大傑作だったの?」

 このマダムの問いに大来はハッとした。

「いや、確かに違う。ショスタコーヴィチの第九は冗談音楽みたいなものだった。たしかショスタコーヴィチは本気で第九を作ったらベートーヴェンやマーラーのように死んでしまうのを恐れてあえて……」

 ここまで言った時、大来はやっとマダムの言わんとしていることがわかった。彼は震えてソファの背中にのけぞった。

「私が言いたいのはそういうことなの。あなたはこの第九が演奏されたら天に召されてしまうかもしれないの。勿論これはただの占いよ。こんな占いの結果なんて無視して構わない。だけどあなたには伝えておきたいの。この曲はクラシック史に燦然と輝く大傑作よ。だけどあなたはこの曲が世に出たら天に召されてしまうわ」

 大来はこの恐ろしいマダムの占い結果をとても出鱈目と無碍にすることは出来なかった。デビューの時このマダムの占いを信じることによって救われた。マダムはこの占い結果を隠して大成功することだけを伝えることもできたはず。しかしマダムは自分に対して全ての真実を話した。それは自分に注意を促し、自分を救うために違いない。彼は一瞬第九の終演の大拍手に包まれて死にゆく自分を想像して悪くはないなんて思った。だが我に返り白鳥の事を思い出した。それから成功の暁に手に入るだろう十代後半から二十代にかけての女たちの事を思った。まだ俺の人生は始まっちゃいない。こんなところで死ぬもんか!彼はマダムに縋り付いて泣きながらどうしたら助かるんだと叫んだ。

「今すぐ第九を破棄することが一番の解決策ですが……」

 ああ!確かに今すぐこの呪わしい第九を破棄すれば俺の命は助かる!だけどもう楽譜はコピーにコピーしまくられてオーケストラに渡ってしまっているんだ!

「それは無理ですよ!もうコンサートの場所も日時も決まっていてもうリハーサルに入る段階ですよ!もう曲は破棄しようにも破棄できませんよ!」

 マダムは泣き叫ぶ大来響を哀れに思った。芸術家といっても所詮我々と同じ人間。命と引き換えに芸術を選ぶなんてできるはずもない。マダムは大来の命を救うために真剣に考えた。そして彼に言った。

「大来さん、曲のタイトルを別なのに変えたらどう。マーラーがやったように別のタイトルをつければいいのよ。あなたの交響曲だったら『管弦楽のための交響曲:深遠の歌』とかに変えればいいわ。マーラーは後に第九に手をつけて死んでしまったけど、あなたはこの先第九に手を出さなければずっと生きていられるかもしれない。とにかく一刻も早く曲のタイトルを変えて!そうしなければあなたは死んでしまうわ!」

 確かにそれは名案であった。大体こんな名曲を破棄なんかしたくはないし出来もしない。しかし名前を変えるだけなら簡単にできる。たったそれだけで自分の命が救われるなら儲け物だ。曲名を変えるだけで命が助かるならいくらだって変えてやる。

 もはや一刻の猶予もなかった。大来はマダムに泣きながら礼を言い店を飛び出してタクシーを拾うと早速関係各社に交響曲のタイトルの変更したいと電話をかけまくった。あれは実は第九じゃなかったんだ。あれは書いた勢いで第九って付けただけ。本当は『深遠交響曲』っていう番号なしの表題交響曲なんだ。

 大来響はこんなふうに関係者を片っ端から説得をしようとしたが、当然のように誰も聞き入れてくれなかった。大来はこの無視ぶりに大激怒してついにはタイトルを変更しなければ曲を引っ込めると一斉メールを送った。この通達に関係者は驚き全員集まって話し合ったが、その時指揮者の大振拓人が拳骨でテーブルを叩いて俺が大来響を説得してやると息巻いた。

 やかましいベルがマンションの部屋中に響き渡ったのはそれからいくらもしない時だった。完全に引きこもって関係者の反応を伺っていた大来はあんまりのやかましく鳴らすベルの音に激怒し怒鳴りつけようとドア付近のモニターカメラを見た。そこに映っていたのは大振拓人であった。大来は普段バカにしているカリスマ指揮者の登場に一瞬ビビったが、すぐに持ち直し大振に是が非でも曲名から第九の名を外させようと説得してやると意気込み、ドアのロックを外した。

 部屋に入ってきた大振拓人は明らかに激怒していた。大来はその威圧感に少し臆したが、負けてはならぬと持ち堪え早速交響曲のタイトルを変更したいと申し出た。

「大振さん。僕はね冷静に考えてやっぱりあの曲は第九に相応しくないと思うんだ。たしかに曲を書き上げた瞬間これぞ僕の第九だと興奮して思わずみんなに見せたさ。だけどその後何度も楽譜を読んで各パートをピアノで演奏してみたらこれはとても第九のレベルじゃない事に気づいたんだ。だから曲名をより相応しい『深遠交響曲』に帰る事にしたんだ。大振さん、あなたも音楽家ならわかるだろ?」

 大来は占い師に第九のタイトルでコンサート演ったら死ぬと言われたからとタイトルを変えるなんて言うことは出来なかった。そんな事を正直に言ったらもう小っ恥ずかしすぎて道を歩けなくなると思ったからである。だからあくまでも自らの矜持を守らんとクオリティーの追求といういかにも芸術家らしい理由を持ち出したのである。大来は一応芸術に厳しいイメージで売っている大振なら自分の言わんとする事をわかってくれると思った。フォルテシモバカのお前も音楽家の端くれなんだから俺の言わんとすることぐらいわかるだろ?さぁ、芸術家のクオリティーのためなら仕方がないとか認めてくれよ。出ないと俺は死んでしまう。だが無情にも大振は首を縦には降らなかった。

「貴様、自惚れるのもいい加減にしろ。俺はゴミみたいな交響曲しか書いてこなかった貴様が奇跡的なほど素晴らしい第九を書いた事に真に感動したのだ。その大傑作を第九として認められないだと?貴様は本当に自分がこれ以上の名曲をかけると思っているのか?ベートーヴェンでさえそんな自惚れた考えは持っていないぞ。ましてや貴様若きが!曲を深遠交響曲なんぞに変えて後で後悔するのは貴様だぞ。俺は断言するが貴様は生涯これを超える曲を書くことはできない。後に第九と称した凡曲を書いても聴衆に今書いたこの曲に第九の名をつけた方が良かったと嘲笑されるに決まっている。貴様は自惚れで今まで培ってきた名声を全て失うのだ。いずれ貴様は失笑と共にこう語られるだろう。作曲家史上最高傑作である第九を何故か表題交響曲に変更して、後に何故かどうしようもない凡曲を書いた馬鹿な作曲家と。それでもいいのか貴様は!」

 自分より遥かに年下の若造にここまで偉そうに言われて大来は腹が立ったが、しかし大振の言っていることはいちいち正鵠を得ていた。確かに自分にこれ以上の曲が書けるとは思わない。もしかしたらタイトルを変更して失笑されながらこれからの余生を生きるより、いっそ第九と共に死んでしまった方がいいかも知れぬ。そうしたら自分は天才として、悲劇の作曲家として永遠に音楽史に残るのだ。彼は芸術に命を捧げてしまえと思った。大来響はまるでファウスト博士のようにメフィストたるこの大振拓人に自らの芸術と命を捧げてしまった。

「大振さん、あなたの言っていることは正しいよ。俺が間違っていた。第九はそっくりそのままあなたに預ける。だからあなたも最高の演奏で第九を演ってくれ」

 大来はそう言いながら涙した。それは自分の人生への別れの涙であった。


 しかし大来はコンサートの当日になるとやっぱり命が惜しくなった。大振の説得に心打たれて第九をそのまま演奏する事に応じたものの、冷静に考えたら自分が第九以上の曲を書けないとは決まっているわけじゃないし、大体まだやりたいことがいっぱいあるのだ。今は死にたくない。だがこのままだったら自分は確実に死んでしまう。

「どうしたの?最近ずっと顔色悪いよ。コンサート中に倒れたりしないでよね」

 武道館の最前列の席で隣の白鳥アンナが声をかけてきた。大来はいやなんでもないさと答えた。

「そういえばあの占い師さん場末でお店再開してるの知ってた?私今度行ってみようと思うんだけど、あなたもついてくる?」

 占い師と聞いて大来の胸はビクンと波打った。ああ!占い師占い師!もう少しで俺はあの人の占い通りに死んでしまう!どうしたらいいのだ!どうしたら俺は救われるのだ!大来は今切実にコンサートが大失敗する事を願った。いくら占い師が成功すると断言しても指揮者はフォルテシモバカの大振拓人なのだ。きっと会場に来ているミーハー連中は曲なんか聴かずに大振に黄色い声援を送り続けているに違いない。コンサートは確かに大成功だが、誰も第九なんか聞いちゃいないだろう。だったら俺の命も助かるんじゃないか?

 だが大来の願いはあっさりと断ち切られた。第一楽章の出だしの一音から聴衆は第九の音楽に聴き入ってしまったのだ。大振のフォルテシモなまでに大袈裟な指揮もこの曲にはぴったりとハマっていた。当の大来でさえ演奏の素晴らしさに涙さえ浮かべた。隣の白鳥は涙ながらに大来に言った。

「響、あなたってすごいよ」

 大来は時計を見て自分の人生が残り少ない事を確認した。もう一時間切ってしまった。何か手を打たなければ俺は死んでしまう。それならばと彼はコンサートをぶち壊すためにどうしたらいいか考えた。もうすぐ第三楽章が終わる。最終楽章が始まるまでになんとかしなければ!大来の頭に一つの考えが思い浮かんだ。これだったらコンサートを完膚なきまでにぶち壊すことができる。作曲家人生は確実に終わるが命だけは助かる。彼は第三楽章が終わった時、隣の白鳥アンナの手を取ってそのままステージの上に登った。会場は作曲家の思わぬ行動にざわめいた。その会場に向かって大来は白鳥の肩を抱いて力強くこう言ったのだ。

「僕、大来響と白鳥アンナはこのコンサートが終わったら結婚します!」

 この思わぬ結婚宣言で会場の至る所が阿鼻叫喚の大騒ぎになった。これを見て大来はもうこのコンサートは終わりだとほくそ笑んだ。これで全て終わりさ。だけど俺の命は助かるんだ。大来は自分の思わぬ言葉に呆然としている白鳥を置いて会場を去ろうとした。命あっての物種さ。長い付き合いだったけどこれでさよならさ。だが白鳥は去ろうとする大来を止めてこう言った。

「響ありがとう!お願いここで誓いのキスをして!」

 すると会場の聴衆は立ち上がってステージの大来と白鳥に一斉にブラボーの声をかけた。大来は涙を浮かべる白鳥とブラボーの声を上げる聴衆に愕然とした。何故みんなブーイングをしないんだ。アンナお前はどうして涙なんか浮かべているんだ。俺はコンサートをぶち壊そうとしているんだぞ。おい大振どうしてそこに突っ立ったまんまなんだ。さっさとその指揮棒で俺の胸を突いて会場から叩き出せよ!だが大振は叩き出すどころか涙を浮かべて大来と白鳥を抱き抱えて力強く宣言したのだった。

「会場のみんな!俺は結婚する二人にこの第四楽章を捧げるつもりだ!みんな心して聴いてくれ!」

 会場は耳をつんざくようなブラボーと拍手に包まれた。その拍手の中大来は末期のような思いで聴衆を見た。もう俺の人生は終わりだ。彼は隣の白鳥のあまりにも幸せそうな表情を見て絶望した。こんなババアが最後の女なのか。第九で成功したら十代から二十代の音大生から若手の美人演奏家を残らず食ってやるつもりだったのに。

 今第四楽章は怒涛のフィナーレを迎えていた。曲は熱く天に駆け上がっていた。あともう少しで天国が近づくその時ステージの大来は膝から崩れ落ちた。そして曲が鳴り止んだ瞬間、大来はバッタリとステージに倒れた。会場は突然の出来事にざわめいた。そして全てが静まった瞬間、白鳥の悲痛な叫びが会場に響いたのである。

 その後医者がやって来て正式に大来響の死亡宣告が下された。

 現代最強のシンフォニスト大来響のこのあまりにもドラマティックな死は世界に衝撃を及ぼした。第四楽章直前の白鳥アンナとの結婚宣言は涙と共に語られ、第九のジンクスに囚われてしまった大来のそのあまりに悲劇的な作曲家人生は伝説とさえなった。先日とあるテレビのインタビューに登場したマダム節子はしみじみとした口調でこう語るのだった。

「やっぱりどう足掻いてもあの人は天国に召される運命だったんでしょうね。悲しいけれど仕方がないわね」

 




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