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最期の小説

 その昔田中文麿なる小説家がいた。とはいっても彼は別にプロの小説家だったわけではない。ただ勝手に小説家と自称していただけだ。彼は勿論しプロの小説家を目指してあらゆる文学賞に応募しまくっていた。しかしことごとく文学賞に落ちた。何故彼の小説が落ちたかというとはっきり言って彼の小説は小説の体をなしていなかったからである。だがそれでも彼は小説家になりたい思いは強く、定年を過ぎて会社を退職してからも新人賞に応募しまくった。だがさっぱりダメだった。いくら小説を書こうが最終選考にさえ上がることはなかった。

 文麿はよく本好きの孫を可愛がり自作の小説を勧めていたが、孫がある日友達の花子に文麿の小説を読ませたらとんでもなく酷いと言われたと話してきた。その話を聞いて頭にきた文麿はそんな文字の読めないバカな友達とは今すぐ絶好しろと怒鳴りつけた。その後孫と花子は花子の引っ越しもあって縁が切れたらしい。それからまた十数年が経った頃文麿は某有名文芸雑誌主催の文学賞にこれが我が人生の最期の作品と意気込んで、小説を書き推敲に推敲を重ねた原稿を文学雑誌にに送ったのであった。

 文麿はもう少年のような気持ちで文学賞の結果発表を待った。この文学賞に受賞すればA賞は間違いなし。A賞最高齢受賞者の記録を塗り替えるかもしれないと過剰な期待をして結果発表を待った。しかし結果は最終選考に残ったものの見事に落選であった。文麿はそれでも最終選考に残ったことを喜び舌なめずりするかのように審査員の選評を読んだ。そこには戸村花子とかいう女流作家が偉そうに彼の小説を「今回の応募作品はどれもレベルが低かったのですがこれが一番酷かったです。こんなのがどうして最終選考に残れたのか全く意味不明です。私はこの稚拙極まりない作品を読んで、昔小学校の時の友達のおじいちゃんが書いた小説にまるでそっくりなことに驚きました。」と思っ糞こき下ろしていた。文麿はその選評を読んで同じく孫の同級生が小学校の頃自分の小説をこき下ろしていた事を思い出し意識が遠くなっていった。

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