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全身女優モエコ 第四部 第十六回:濃厚接触!

 街はすでにネオンサインが点き始めていた。冬の夜の帳が降りようとする街中を私とモエコは並んで歩く。今日の撮影は一応17時から22時までの予定であるが、場面の重要さを考えるともっと長くなるかもしれない。いや、ひょっとしたら日をまたいでしまうこともありうる。

 撮影現場のキャバレーは老舗の大きな店で、恐ろしく豪華であった。しかしモエコはその店を見ても全く顔色を変えなかった。もう完全に杉本愛美になっていた。私達が店内に入るとスタッフがやって来て早速一番右端の椅子まで案内してくれた。ここがモエコの席だということだ。モエコは完全に大女優気取りで大げさに足を組んで椅子に座った。すでに座っていた他の役者たちが私達に向かってお辞儀をした。その時店のヤクザ風の格好をした客役の男が聞こえよがしにぼそっと嫌味を言った。「あの子新人のくせに凄い偉そうな態度してるねえ。いきなり大役に抜擢されて少し舞い上がっているのかな?やっぱりちゃんと教育が必要だよなぁ~」これを聞いて私は慌ててモエコを見た。だがモエコは周りの雑音を完全に遮断するかのようにひたすら台本を凝視していた。ああ!こんな陰口モエコに聞かれなくて良かった。聞いていたら間違いなくこのヤクザ風の男と乱闘沙汰になっていただろう。突然大役に抜擢された素人同然の無名の女優。長年役者をやって来た連中にはそんなモエコを妬ましく思うものもいるはずだ。ああ!モエコめスタジオで大俳優たちに褒められた事で完全に調子に乗っていた。ああ!モエコよ。いい加減目を覚ませ!そうやって調子に乗っているといつか落とし穴に嵌まってしまうんだぞ。

 南狭一は彼らを挟んで反対側に、例のものすごい顔した女マネージャーとともに座っていた。撮影現場でメインキャスト同士が離れて座る事はあまりない。私はこの女マネージャーに深く感謝した。これで南に関しては大丈夫だ。ここまで監視されたらいくら南であろうがモエコを口説くなんて不可能だ。これで一つ目の懸念は払拭された。あとはモエコがあのシーンを無事にやり遂げることが出来るかだ。


 このロケもスタジオに引き続きぶっつけ本番の収録となる。収録は全部で二シーンであるが、そのうちのワンシーンは南が歌番組に出演するため巻いて撮影を行わなければならない。まず撮るのは南扮する上代達夫がキャバレーでモエコ扮する杉本愛美と初めて出会う場面だ。この場面での南との絡みについてはあのものすごい顔した女マネージャーが監視しているので心配する事はないだろう。それにこの場面ではモエコと南はほとんど接触しない。ただ客に殴られた南と短いやり取りがあるだけだ。だが、その次のあの場面はどうすれば良いのか。モエコは一体どう思っているのか。どう演じるつもりなのか。もしモエコが演じること自体できなくなったら……。

 やがて本番が始まった。モエコはスタジオに引き続きここでも凄まじい演技を見せた。そのモエコの演技に先程イヤミを言っていた客役の男は驚きのあまり固まってしまった。客役はベテランの役者であるらしいが自分の思わぬNGに縮こまり、何度も頭を下げてモエコたち共演者やスタッフに謝った。モエコはその客役に向かって「あなた演技するんだったら台本ぐらいちゃんと食べてきなさいよ!食べてこないから台詞を忘れるのよ!」と激しすぎるほど熱く説教した。このモエコの発言に説教された客役だけでなく撮影その場にいた関係者はこのモエコの新人にあるまじき言葉に驚いた。客役にいたっては完全に萎縮してしまった。台本を食うぐらいの勢いで役を自分の中に叩き込めだなんて新人が発する言葉なのだろうか。この子は一体今までどんな人生を送って来たのか。しかし彼らは勘違いしていた。モエコが台本を食えと言ったのは、文字通り台本を口の中に入れてよく噛んで食べろとという意味だったのだ。散々語ったようにモエコは小学校時代からずっと共演者に台本を食わせ続けてきた。そうすれば役と一体化してセリフを忘れることはないという思いから共演者に台本を無理やり食わせ続けてきた。セッティングが完了し再び撮影が始まった。モエコは先程と全く同じように素晴らしい演技を見せた。この慣れた手付きで客のグラスに酒を注ぎながら話しかけるモエコがまだ十七歳だと言っても誰も信じないだろう。いや、もう彼女は十七歳のモエコではない。今ここにいるのは彼女より四歳も年上の杉本愛美なのだ。「乾杯~っ!」とモエコが明るく客に呼びかけるその演技は台本には書かれていない杉本愛美の孤独や悲しささえも浮かばせた。

 その時店に南狹一扮する上代達夫が友人ととも入ってきた。受験失敗と両親が共に不倫していることを知ったショックで自棄のやん八となっている達夫を悪友がキャバレーに誘ったのだ。おどおどしながら店に入ってきた達夫。私はスタジオでの南の演技を見たときアイドルにしてはうまい演技だと思ったが、今回は改めて彼の演技を見てやはり人気者になるだけの事はあると感心した。南は歌番組とはまるで逆の地味な服装でしょぼくれた浪人生を演じていたが、いかにもそれらしく見えた。

 店に入った達夫と友人はすぐに黒服に席に案内された。この店の常連客であるらしい友人は黒服に向かってホステスを呼ぶように言う。達夫は少し離れた席で派手なスーツを着た明らかにカタギではない数人の客の相手をしている愛美を見る。綺麗な人だと達夫は目を異様にギラギラとさせた。ああ!コイツの演技に感心した私がバカだった。この男は演技の最中でもモエコを虎視眈々と狙っているのだ。「綺麗なひとだ」と達夫はつぶやく。だが友人はそんな彼を笑いながらあれは高級嬢だから俺たちには無理だよとからかう。だがそれでも愛美を見つめる達夫。愛美も達夫の視線に気づく。目が合ってしまった二人。ああ!モエコ演技とはいえそんな潤んだ目でに南を見るな!こいつは色情魔のイモリ男なんだぞ!だがそんな私の心の叫びも虚しく二人は周りをすっかり忘れて見つめ合う。

 だが愛美の態度に苛立った客の一人がいきなり彼女の肩をつかんで怒鳴りつけた。ああ!さっき台詞を忘れた役者だ。彼は汚名挽回をと力を込めて演技をする。だが愛美は豪然とした態度で客をにらみつけて肩の手を払ってこう言い放つ。「アンタ、人が優しくしてやってるからって調子に乗るんじゃないよ。ココはアンタの来る店じゃないんだよ。さっさと出ていきな!」愛美から文句を言われた客は激昂して拳を振り上げる。店内に響き渡る人々の絶叫。しかし愛美は全く動ぜずに客を睨みつける。達夫は愛美を守ろうと客の前に立ちはだかる。その達夫を目を潤ませて見つめる愛美。ああ!そんな潤んだ目で南を見つめるんじゃないモエコ!南みたいなクズなんか一瞥くれてやるだけでいいのだ!その愛美の目の前で客たちが達夫の襟をつかんで引っ張った。愛美は達夫を救おうと異様に切迫感のある表情で客に掴みかかって店内に響き渡る声で「この人に何すんのよ!この人は関係ないでしょ!殴るんだったら私を殴りなさいよ!」と叫んだ。だが客は愛美を突き飛ばし無理やり達夫の襟首をつかんで外へと引っ張ってゆく。床に倒れたモエコ。カメラは震える彼女の全身を撮る。

 ここで監督のカットの声がかかった。その瞬間周りから一斉にため息が漏れた。皆モエコの演技に圧倒されていた。皆が見守る中彼女はゆっくりと床から起き上がりどこか熱に浮かされたようなうつろな表情で私のところへ帰ってきた。しばらくして監督からOKの声がかかると撮影スタッフが一斉に拍手を始めた。ああ!その拍手は明らかにモエコに向けてのものであった。モエコは完全にその全身女優としての才能を輝かせていた。スタジオに続きここでも彼女は演技で皆を圧倒したのだ。モエコは周りから浴びせられる拍手を不思議に思ったのか、私に向かってあの拍手は一体なんなのと聞いてきた。私は彼女にみんなお前の演技に拍手してるんだよ。さっきの演技はそれぐらい凄かったんだと言った。するとモエコは目をカッと見開き恍惚に身を震わせて「ああ!そうなのね!みんな褒めてくれてるのね!ああ!愛美ちゃん!みんな誉めてるよ!私達を誉めてるよ!」と歓喜の声を上げた。ああ!モエコは今栄光の絶頂であった。羽ばたき出した蝶が好奇心の赴くままに花を求めて飛び回ろうとするように、モエコもまた芸能界という森を全身女優という栄光を求めて無邪気に飛び回ろうとしていた。しかし自然の森には常に危険が待ち構えているように、芸能界という森にも自然と同じぐらい、いや自然より遥かに大きな危険が待っている。その危険は今成虫になりたてのモエコのそばにいた。ああ!南狭一という蝶好きのイモリ野郎が!

 南狭一が先程から撮影の合間に時々モエコをガン見しているのには最初から気づいていた。演技中でさえモエコにアピールしていたぐらいなのだ。今スタッフが次の撮影の準備のためにカメラを入り口に移動してセッティングをしている最中もモエコを激しく見つめている。ああ!あのものすごい顔したマネージャーでさえコイツを抑えられないのか。

 このシーンの収録は殴られた達夫を愛美が介抱するところを撮って終了する。この撮影が何事もなく終われば今日は南とさよならだ。今のところモエコは南狭一に靡いている様子はない。モエコは南など全く見ず早く撮影を始めろ、でないと私と愛美ちゃんは死んでしまうと私に喚いてるぐらいだ。私はそのモエコの態度を見て、南と出くわした時のモエコの挙動から感じられた不安が全て杞憂だったと分かって安心した。まあ、考えて見れば当たり前ではないか。演技することしか頭にない天性の女優に南ごときバカアイドル等眼中にあるわけ無いではないのだ。今のモエコならばこの撮影の後で撮るあのシーンも、そして明日の南とのあのシーンも軽く乗り越えられるだろう。まもなくしてスタッフが撮影再開の号令をかけた。私は椅子から立ち上がったモエコに最後まで演じ切れよと声をかけた。するとモエコはあ?と呆れたような顔をして「このモエコに向かって演じ切れよ?アンタ何様のつもりなの?モエコは女優火山モエコなのよ!そんじょそこらの女優とはわけが違うのよ」というと私に背中を向けてライトが輝く方へと歩き出した。

 そうして再び撮影が始まった。客に連れ去られた達夫を追って外へと飛び出した愛美。達夫は店の入り口の脇で一人倒れていた。どうやら悪友はすでに店から逃げ出してしまったらしい。達夫は苦痛に悶えその腫らした顔を歪めて呻く。私は南のその大げさな傷のメイクと演技に腹がたった。きっとコイツはモエコの気を引くためにこんな演技をしているのだ。しかしそんな見え透いた演技でモエコを騙せるわけがない。モエコは女優になるために生まれてきた本物の女優なんだぞ!貴様ごときに堕とせる訳がないのだ!

 愛美はその達夫にハンカチと万札を投げつけて言い放つ。「これ持ってさっさと帰んな!ココはアンタみたいな素人が来るところじゃないんだよ!」だが達夫は立ち上がらない。愛美をじっと見つめるだけだ。自分を見つめる達夫の視線に戸惑う愛美。その愛美に向かって達夫はつぶやく。「君、孤独なんだね」達夫の口から思わぬ言葉を聞いた愛美は思わず目をそむける。達夫は体を起こして愛美に向かって熱い目で語りかける。「僕わかるんだよ。君の孤独が、君の寂しさが!」「アンタ何言ってんだい!」達夫はここでいきなり体を起こして愛美の手を握ってこう言うのだ「だって……だって君は僕と同じだから!」。そこに突然雨が降り注ぎ二人はそのまま立ち尽くす。これがこのシーンの最後だ。しかし、南の奴は「だって……だって君は僕と同じだから!」と大下座に叫んで泣きながらモエコを抱きしめたのだ。モエコはいきなり抱きしめられたショックで目を剥いたまま棒立ちになってしまった。ああ!そこにスタッフが予定通り雨を降らす。南は雨降る中ずっとモエコにベッタリと貼り付いていた。ああ!肩を丸出しにしたトップスのモエコをシャツ一枚の南がずぶ濡れになりながら濃厚接触している。しかし何故か撮影は止まらない!おいお前らなんで撮影を止めないんだ!コイツは台本を無視してモエコに濃厚接触してるんだぞ!南はモエコを無理やり抱きながら相変わらず大げさに泣きまくっている。おい、あのものすごい顔したマネージャーは何をやっているんだ!お前のバカアイドルがオイタをしているんだぞ!だがここで監督のカットの声がかかった。私はカットの声を聞くなりすぐさまタオルとコートを持ってモエコの元に駆けつけた。同じようにあのものすごい顔した女マネージャーも南の元に駆け寄っている。私は南のマネージャーに向かって会釈したが、彼女はあのものすごい顔で私とモエコを睨みつけて南を引っ張っていった。南は連れ去られている時いきなりモエコの方振り返りウィンクなんかしやがった。

 私は呆然としているモエコに声をかけたが、彼女はうんともすんとも答えなかった。完全に我を見失っているようだった。モエコは体を震わせていたがそれ明らかに寒さのせいではなかった。

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