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僕の名前

 喫茶店のテーブル席で一時間近く奴を待っていた。憎んでも憎み切れないあいつ。あいつが他人だったらこんなに憎まずにすんだのにと悔しさばかりが込み上げてくる。子供の頃に僕と母さんを置いてどっかで引っ掛けた女と家を出たクソ親父。本当は親父だなんて認めたくはないよ。捨てられた母はそれから間もなくして死んだが、あのクソ親父はそれでも母に会いに来なかった。来てくれて涙なんか流してくれたらあいつを許していたかもしれない。だけどアイツは来なかった。香典さえ送って来なかった。

 僕の名前をつけたのはそんなクソ親父だった。僕はハッキリ言って自分の名前が大嫌いだ。生まれてから今までこの名前のせいでどれだけ苦労して来たか。僕はクソ親父が出て行ってすぐ母に改名してくれと涙ながらに頼んだ。だけど離婚されてもなおクズ親父を愛していた母は僕を平手打ちしてこう言ったんだ。

「あなたなんてこと言うの!あなたの名前はね、お父さんが大地に根を張って天に向かって堂々と立てって願いを込めてつけた名前なのよ!それが恥ずかしくて嫌ですって?確かにお父さんはあんなどうしようもない人よ。だけど私たちを思う心は人一倍あったのよ!」

 母はクソ親父につけられた僕の名前が好きだった。僕がみんなの前では名前を口にするなと言っていたのに堂々と名前で僕を呼んだ。呼ばれる度に僕は顔を赤らめ、名前をつけたクソ親父を恨むのだった。

 そのクソ親父はまだ来ない。どっからか僕の電話番号を知らないが自分から僕に会いたいと言って来たのに一時間待っても来ないとは何を考えているんだ。後五分待っても来なかったら俺はもうこっから出ていく。そして永遠にさようならだ。クソ親父は電話で泣きながら自分の近況を話した。なんでもあの女とはとっくに別れて今は四畳半のボロアパートに住んでいるらしい。全く天罰だと嘲ってやりたいような様だったが、不思議と親父を嘲る気は起きなかった。逆に憐みと同情さえ芽生えてきた。親父は涙声で何度も僕に会いたいと懇願した。僕は親父の涙声に釣られてつい会うことを承諾してしまったのだ。

 こうしてずっとクソ親父を待っている間親父との電話のやり取りを何度も思い出した。電話で親父は涙声で何度も僕の名前を呼んだ。僕は恥ずかしさに耐えながらウンウンと相槌を打った。親父の名前を呼ぶその声はとても心がこもっていた。それはまさに今まで親父から感じた事はない父から息子への愛だった。僕は親父の口から直接どうしてこんな名前をつけたのか聞きたかった。僕の恥ずかしい名前に込められた真の意味を彼の口から聞きたかった。僕は彼が僕の名前について何もかも正直に話してくれたら和解できるかもしれないと思った。

 五分ギリギリになりもう待てないと椅子から立ち上がろうとした時、喫茶店のドアがベルの音を立てて開いた。ドアにはすっかり老いた見窄らしい男がいた。それは親父だった。あまりにも想像通りの見窄らしさだった。親父はヨロヨロと僕の座っているテーブルにやって来た。僕は立って親父を席に座らせた。親父は潤んだ目で僕を見ていた。多分親父も潤んだ目の僕を見ているのだろう。二人とも無言で頷いた。ろくに口も聞かなかった父。だけどやっぱり親子は心で繋がっている。そんな事さえ思った。しばらくの沈黙が続いた。僕はどう話を切り出したらいいか迷った。多分親父もそうだろう。全く口下手なところはよく似ているぜ。だけど僕は顔を上げてまっすぐ親父を見て言った。

「いきなりだけど俺、親父に聞きたいんだ。なんで親父は俺に魔羅大根なんて名前つけたんだ?」

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