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複数名義

 小説家の中には複数のペンネームで活動している人間がいる。それはジャンル毎に名義を分けて書いたり、単なる気まぐれであったり、あるいは大人の事情だったりと理由は様々だ。何故いくつもペンネームを持っているのかについては当人に聞いてみるといい。ひょっしたら凄くくだらない理由かもしれないし、ひょっとしたらとんでもなく重大な理由があるのかもしれない。

 東京の世田谷区内の高級住宅街の中に、両隣を大きな屋敷に挟まれて二階建てのボロアパートがあった。この山の手にまるで似つかわしくない木造のボロアパートはまさにボロアパートというに相応しいものであり、建物の一部などすでに崩れかけていた。このアパートは一階の一部屋しか借りられていない。今その部屋に住んでいる私小説家百足虫雄は文芸雑誌の編集者のインタビューを受けていた。

 伸ばし切った無精ひげを晒して虫食い穴の目立ち過ぎるTシャツを着た百足はインタビューにアル中であること。金がなくて来月に原稿料が手渡されなかったら、首を括るしかないこと。しかも娼婦との性交で性病にかかってしまい毎夜痒みと痛みに悩まされていることなどを語ったが、百足はインタビューの最後に決然とした表情でこう言い切った。

「俺は札束代わりの原稿のクズ紙と、アルコールと吐瀉物と膿で全身を覆われようが、最後まで小説は書くつもりだ。何故なら俺には小説しかないからだ」

 インタビューが終わると編集者はありがとうございますと礼を言って立ち上がった。百足は編集者を見送ろうと立ち上がりかけたが、編集者は性病に冒された百足を労ってそのままでいいと慌てて止めた。別れ際に編集者は百足に向かって原稿料をもらったら、すぐに病院に行くように勧め、それから百足に向かってあなたは最後の純文学作家だ。これからも文学を書き続けてくたさいと声をかけた。百足は編集者の言葉に感極まって涙を浮かべた。ああ、書き続けるとも。この百足虫雄が生きている限りは。

 百足は窓からアパートから離れてゆく編集者を見送り、そして完全に見えなくなるといきなりすくっと立ち上がりそれまで来ていたボロッカスにもほどがあるTシャツを抜き捨てた。押し入れに隠しておいたシルクのパジャマに着替えた。そして畳を開けてかけてあるハシゴを降りたのである。

「次のインタビューはあと一時間後だな。だが早めに来るかもしれない。早めに準備しないと」

 こんな事を呟きながら百足はやたら灯りが眩しい大理石の地下通路を歩き、蜻蛉返理と書かれた天井のところで止まり立てかけていたハシゴを登った。

 百足は天井を開けてやたら豪勢な部屋に入るとすぐさま壁際の鏡に向かい無精ひげパックを取ってやたらスッキリした自分の顔を見ながら、俺は今からベストセラー作家蜻蛉返理なんだぞ。しばらく百足とはお別れだ。と何度も言い聞かせた。そして彼はスイス製のタンスから着替えを出すと早速シャワールールに向かった。

 それから半時間たった頃、 ベストセラー作家蜻蛉返理は週刊誌の記者のインタビューを受けていた。アルマーニのスーツを着た蜻蛉は噂通りの傲岸な態度で同業者をこき下ろしまくっていた。俺が売れるのは他の奴らが低レベルなだけだ。いいかい?自分のクズさを棚に上げて売れている奴はクソなんて文句垂れるのは三流作家なんだよ。売れてない奴はすべてクソだ。勿論例外はあるけどね。編集者は興味津々にその例外とは何ですかと聞いた。すると蜻蛉は目を輝かせて言った。

「百足虫雄って純文学の私小説作家さ。アイツだけは本物だよ。小説のために自分の人生を犠牲にしているんだからな。性病になっても治療もろくにしないで一日中小説を書いているらしいからな」

「世の中には凄い人がいるんですね。蜻蛉さんはその人に会ったことありますか?」

「ふっ、残念ながら一度も会ったことはないね。せめて一度ぐらい会いたいんだけどね」

 インタビューの終わりに蜻蛉は今度の新作楽しみにしてますと言われ、さらに過去作が立て続けに映画化されている事を祝福された。しかし蜻蛉はそれを聞いてもうざそうに記者に相槌を打つだけだった。

 記者を適当にあしらって帰すと蜻蛉は夕陽に照らされたリビングで一人ワインを飲んで純文学を志していた昔の事を思い出していた。蜻蛉は元々純文学中の純文学である私小説家になりたかったが、私小説家風にわざとボロボロにした原稿を出版社に持ち込んだら、お前は正真正銘の偽物だと言われそれで私小説家になることをあきらめてしょうがなく娯楽作家になったのだ。だが彼は私小説家になることを諦められなかった。だが元々それなりに恵まれて品行方正に暮らしてきた彼には語るべき過去は何もなかった。だけど本物の文学である私小説家にどうしてもなりたい。そんな思いが百足虫雄なるペルソナを生み出したのだ。彼はこの百足虫雄なるペルソナに己の体験しえなかった私小説家らしい、体験を偽造して書きに書きまくったのだ。彼はそのために隣のボロアパートを買い取り、百足虫雄として私小説を書く時だけ寝泊りした。その衝撃的すぎる内容はすぐに文壇で評判になり、百足は純文学の救世主としてもてはやされた。

 蜻蛉こと百足はこの思わぬ出来事に泣いた。ああ!やっと私小説家として認められた!苦節十年、娯楽作家に堕落して腐りきっていた日々よさようなら!と思わず娯楽作家を引退しようとさえ考えた。だが彼はそこで立ち止まるのだった。純文学の救世主の私小説家百足虫雄の正体が低俗なベストセラー作家の蜻蛉返理だったなんてしれたら誰も読まなくなるどころか、蜻蛉名義の作品だって読まなくなる。やっぱりだめだ。一生隠しとおすしかない。しかし時が経てばいずれ人は真の文学に気づくだろう。百年経てば蜻蛉返理なんて低俗なベストセラー作家は忘れ去られ、真の純文学として私小説家百足虫雄の傑作達が光り輝くのだ。そのために自分はあえて恥を忍んで売れている名前で他人を装って百足虫雄の宣伝をしているのだ。死後の栄光のために。彼は夕陽を見ながら遠き未来をおぼろげに見たが、その時本日もう一つのインタビューがあったことを思い出した。

 ああ!今度は超人気作詞家華吹薫としてテレビのレポーターインタビューを受けなくてはいけないのだ。蜻蛉は華吹薫になるために二軒隣の屋敷に急いでいこうとしたが、その時隣のアパートからガンガンドアを叩く音と共に先ほどインタビューを受けた編集者の声がするではないか。編集者は大声で「ICレコーダ忘れてしまいましたぁ~。開けてくださ~い!」とか言っていた。さらに今さっきインタビューを受けた雑誌の記者もベルを鳴らして財布を忘れたという。またさらにスマホに電話がかかってきて「華吹さん、今お家の前にいるんですが開けてくれませんか」と言ってきた。早く華吹薫になって百足虫雄の宣伝をしなければと、百足=蜻蛉=華吹はとりあえず梯子から地下道に降りたが、魔の悪いことに何故か地下道の電源を切れてしまったのだ。ああ!どうしたらいいんだ!せっかく一番売れている華吹薫で百足虫雄の宣伝をしようとしたのに!このままじゃいけない!とりあえず蜻蛉の戻ろうとしたが、真っ暗闇でもう何も見えない!彼は思わず大絶叫したが、それを聞いた三軒の前にいた編集者、記者、レポーターは一斉に警察に通報した。

 辺りは阿鼻叫喚だった。両隣の大きな屋敷とボロアパートには警察がひしめきガンガンドアを叩いていた。百足虫雄、蜻蛉返理、鼻吹薫のインタビュアーの三人はその光景をそれぞれの家で見守っていた。純文学雑誌の編集者はとうとう来るべき時が来たのか。あまりに突然の結末だが、これが私小説作家百足虫雄の最期にふさわしいと思い。雑誌の記者は突然の殺人!自作のミステリー小説さながらの大事件!一体ベストセラー作家蜻蛉返理を殺したのは何者か!と思い。最後にテレビのレポーターはああ!やっぱり起こるべきことが起こってしまった。あんなに片っ端から性病になるほど女に手を出してちゃ、絶対にろくな目に合わないって思っていたんだと思った。しかし警察は間もなくして三軒から一斉に出てきてそれぞれの通報者に向かって首を振った。

「残念ですがどこにもいないんですよ。大声とかなんかの空耳じゃないでしょうか。ろくに痕跡すらないんで捜索する意味すらないです」

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