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インナーチャイルドと笑って話す

今まで熱心に「自己理解」や「過去の振り返り」などをして、自分の生きづらさに向き合い続けてきたけれど、正直に言うと全然見当違いなことをしていたかもしれない。

もちろん、そんな回り道も大事だと思っているけれど、私は本当に大事なことを忘れていたなと思うから、ここに書いておくことにする。

私にとっての自己理解は、がまんだった

今から15年前にアダルトチルドレンという概念に出会い、そこからというもの自分の不安定な心や衝動的な行動、周囲への不信感、常に付きまとう罪悪感などさまざまなことに悩んできた。

そこから心理学を学んだり、発信したり、親や夫と話をしたり、子育てを通じて自分を分析したりと、いろいろな角度からものごとを見てきた自負がある。

そしていつしか私は「ちゃんと自己分析できれば、生きづらさは消える」と思うようになった。

確かに自己分析は大事。「なぜこうなんだろう?」「この先どうしていく?」ということを考えるのは重要だ。でも、最重要ではない。

私はすべてにおいて「理屈」でものを考えていて、そこに「感じる」ということがなかったのに気づいた

たとえば、親が自分に対してなぜあのような接し方をしていたのかを考えたこと。それは、母親もそのまた親から理不尽な教育をされて、無条件の愛情を知らなかったからだとか、父親も親との問題に悩み、それが両親の間で度々問題になっていたからだとか。

両親もまたアダルトチルドレンであり、私が生きづらさを抱えるのにも理由があり、仕方なかった部分が大きいなと、納得したつもりだった。

また自分の気質が「HSP」という、人の気持ちに敏感で、自他の境界線が引きにくかったり、人に迎合しやすい部分があったりするということも、今の生きづらさに関係していると結論づけていた。

もちろんこういった理屈を考えて、自分を納得させることが無意味なわけではない。

でも、原因や理屈以上に大事なのは「私がそのとき、何を感じたか」「今自分は何を感じているか」ということなのだと思う。

『生まれ持った気質×親子関係・友達関係・学校生活=生きづらさ』

という方程式を自分の中で作って、納得させようさせようと必死だった。

結局、いろんな知識を頭に入れてもあまり現状が変化しないのは「だから、がまんしないとね」って自分に言い聞かせて、自分が何を感じているかは無視している状態。

理屈で物事を考えても、こういう方程式でこれからも生きていかなければならないかもしれない。ここに感情が存在しない限り。

いつまでも子どもの頃のことに執着している自分

自己分析を進めていく中で、湧いてきたのが

「もう、幼少期のことやアダルトチルドレンというものに関与したくない」という気持ちだった。

これだけ色々調べて、考えたんだから、もう幼少期の満たされなかった気持ちなんて忘れなくちゃダメだという思いが強くなりだした。

いつまでも、過去にとらわれていないでもっと、大人になろう。いい歳だし、自分の子どもや新しい家族のことを考えないと……って思うようになった。

昔は「早く大人にならなくちゃ」と思っていて、今も「いいかげん、大人にならなくちゃ」って思っている。

あんなに良くなろうと必死になったのに、たいして進歩してないなぁ。

そう思って、最近また原因のわからない黒いものがお腹の中に溜まっている感じがするようになってきた。

気持ちをしっかりと感じない限り、大人にはなれない

いちばん最初にやるべきだったのはちゃんと「感じる」ということだった。そして自分が感じた気持ちを認めること。

「自分が感じたことを認める」って、言葉で表現するのはめちゃくちゃ簡単だけど、いろんな錯覚や無意識の中にいる人間にとっては本当に難しい。

・悲しんではいけない

・自分だけ楽しんでいてはいけない

・疲れてはいけない

・悔しいと思ってはいけない

・ムカついてもいけない

・それを表に出すなんてとんでもない

いつでも、感情を表現するときには条件がついていた。

人を不快にさせてはいけないとか、人を傷つけてはいけないとか、周囲に配慮しなければいけない、いつも頑張っていないといけない。いろんな条件が、私の感情にはくっついているのだ。

どんな人も大なり小なりそういうところがあるのかもしれないが、私はとてもそういう傾向が強い。だから、いつまでたっても生きていてなんとなく不快なのだろうと思う。

でも、自分の感じたままを自由に表現できる場所なんて、この世界には正直ない。人と接するには、やっぱり自分を律しなくてはいけないし、家族との平穏な空間を維持するには、自分の感情を思いのままに表現するリスクは高いと思う。

それに加えて、世の中のたくさんの人が愛に飢えている。満たされない自己愛を人を批判したり、蔑んだり、マウントを取り合ったりして解消しようとしているのって確かだと感じるのだ。

twitterでちょっとつぶやいただけでも、批判や攻撃が飛んできたりする。ネットの記事も然り。私もどこかの誰かのつぶやきやニュースの記事内容に、内心イライラしたり「間違ってる!」と怒りを抱いたりしたことだってある。

そういう感情を、ストレートに表に出すとやっぱり諍いが起きる。それは自分の経験上嫌というほど見聞きしてきたものだ。

デフォルトの自分、自分のありのままを晒すということは、なかなかできない。そこで、何が必要か?

それは「幼少期の自分」なんじゃないだろうか。

「幼少期の自分」を自分のそばに置く

不思議なことに、自己理解を深めれば深めるほど、子どもの頃の自分を思い浮かべることが増えている。

子どものころの私は、七五三の絵馬に「私がいい子になれますように」と書くような子どもだった。

子どもの頃の自分に向かって「そんな風に生きてきたから、今の私がこんなにダメなんだ」とか「いい子にならなくていいの!」とか、そういう否定的な感情をもつのは違う。

そうじゃなくて「ねぇ、それってどういう気持ちで書いたの?本気で思ってたの?」なんて聞いてみたい。

そして子どもの私は「いやいや(笑)本当なわけないじゃん! 本当は『お菓子をお腹一派食べて寝たい』とか『毎日学校なんて行かないでずっとゲームしたい』とか思ってたよ!でも、こう書かないとみんな嫌な顔するからさ。」「やっぱりそうか!さすが私だな。大人になっても、まだそういうことしてるよ。」

とか言って、話したいんだ。

私は、どう動けば大人が納得してくれるかを体現するのが上手かったような子。確かに愛されるために一生懸命だった。その反面、上手くやることを自然に身につける器用さも持っていたと思う。

傷付いても、傷なんかついてないしボーっとしてるふりができる、負けず嫌いなところもある。今の自分と、あまり変わらない。そう、あんまり変わらないんだ。

今の自分をいいと思えなくても、子どもの頃の自分まで「お前ダメだぞ」とは思えない不思議。そこにはやっぱり「満たされたかった」という気持ちがあると思う。

満たされたかった頃の自分までも否定する気には正直、ならない。むしろ、あんなに頑張ってた。あんなに我慢してた。悲しかった。痛かった。怖かった。寂しかった。全部、わかってあげられる。あっちも、私のことをわかってくれると思う。

私のことを全部知ってる、あの頃の自分。

過去に捕らわれているとか、いつまでも幼少期のトラウマに縛られているようなネガティブなものではぜんぜんなくて、自分をひとつに統合していくような作業だ。

これが今いちばん私にできそうな「自分で自分を認める方法」だなって、思う。インナーチャイルドって、過去のネガティブな傷やトラウマのことを指すものだけど、それだけだと今の自分もしんどい。

だからインナーチャイルドと、親友みたいに「あんたやっぱ最高だね」って言えたり「そういうとこあるよね(笑)」っていじったりして、笑って話すイメージをもつのって楽しいんじゃないかなと、思っている。

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自身の体験から、どのように過去の記憶を乗り越えたのかを電子書籍にまとめています。

「自分の感情がわからない」「つらいと思っていいのかわからない」「過去をどう捉えていいかわからない」「トラウマを手放して明るく生きたい」このような、幼少期のトラウマが「未解決」のままになっている人や、どんなことも過去の体験と結び付ける思考をやめたい人に向けて書いています。ご興味のある方はぜひご一読いただければ幸いです。





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