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ショートショート|孤独なクラゲと海を漂う

「まもなく、イルカショーが始まります」
 このアナウンスが流れてからクラゲの水槽前にいた人たちは皆いなくなってしまった。ここにいるのは水槽の中を漂うミズクラゲと私だけ。静かになった空間に穏やかな音楽だけが流れている。照明の演出も相まって海の中にいるような気分になれる。
「君はみんなと一緒に行かないの?」
 不思議な声がした。聞いたことのない優しい声だ。しかし、周りに人はいない。
「あれ、やっぱり僕の声は聞こえないのかな」
「誰?」
「僕だよ」
 眼の前にはくるくると回るように泳ぐクラゲがいた。
「そうそう。僕だよ。よかった、僕の声聞こえるんだ」
 幻覚、いや幻聴だろうか。明らかに他のクラゲとは違う動きをしているこのクラゲが私に話しかけている。そんなおとぎ話の世界のようなことが起こるわけがない。この幻想的な空間に影響を受けているだけだろう。
「待って! ちょっとでいいから僕とお話してよ」
「・・・・・・ほんとに君が話しかけてるの? 誰かのいたずらじゃなくて?」
「もちろん僕だよ。やっと誰かとお話できる・・・・・・。他のみんなに話しかけても何も返してくれないから僕の声は誰にも聞こえないのかと思ってた」
 クラゲには脳がないため感情もない。そんなクラゲが会話なんてできるのだろうか。でも目の前のクラゲは明らかに私に話しかけている。
「君はどうやって話してるの?」
「さあ、わからない。どうしてみんなは話せないんだろうね。僕が話しかけて気づいてくれたのは君が初めてだよ」
「仲間たちとは話せないの?」
「うん。話しかけても誰も何も返してくれないんだ」
「そうなんだ」
「だから僕はずっと独りぼっちだったんだ。とっても寂しかった」
 この子が孤独を感じているということを知る術がない他のクラゲたちはきっと何も考えることなくただ漂っているのだろう。
「どうして僕だけおしゃべりできるんだろう」
「うーん・・・・・・。それは私にもわからない。君だけに与えられた特別な力だね」
「特別な力か・・・・・・。僕だけじゃなくて他のみんなも話せるようにしてほしかったな。僕だけ喋れるようになっても寂しいだけだよ・・・・・・」
 クラゲは力なく水槽の底に沈んでいく。感情を持ってしまったがゆえに孤独になってしまったクラゲを私は救うことができない。ここから連れ出してあげることもできないし、同じように喋れる友達を見つけてあげることもできない。
「ごめんね。私には君を助けられる力はないんだ」
「大丈夫。僕の声に気づいてくれただけで嬉しいよ」
 クラゲの表情はわからないが優しく笑っているような気がした。せっかく気づいてあげられたからと、イルカショーが終わって人が戻ってくるまで私達は話し続けた。私も誰かとこんなに話したのは久しぶりだった。
「ねえ、みんな僕のことをクラゲって呼ぶけど喋れるのは僕だけだし、特別な名前をつけてよ」
「名前? そうだな・・・・・・。じゃあ、スイは?」
「うん! いいね!」
 水母から取ってスイ。単純な名前の付け方だったが喜んでくれたようだ。スイはくるくると回っている。
「君はなんて名前なの?」
「私は澪っていうの」
「いい名前だね」
 これから先どれくらい生きられるのかはわからないが、クラゲに名前を褒めてもらった人間はきっと私だけだろう。スイと話しているとだんだんとガヤガヤとした声が戻ってきた。イルカショーが終わって館内を巡る人が戻ってきたのだろう。
「そろそろ私も行かなきゃ」
「またいつか話しに来てくれる?」
「もちろん」
「ありがとう。じゃあ・・・・・・またね」
 スイは少し寂しそうに仲間たちのところへ戻っていった。たくさんの仲間に囲まれた孤独なクラゲはみんなと同じふりをしている。
 クラゲの水槽を前に綺麗だね感動する人たちの声で一気に現実世界に戻ってきたような感覚になった。今までのはただの私の妄想だったのかもしれない。しかし一匹のクラゲから目を離すことができない。スイの優しくて不思議な声がまだ耳に残っている。私だけはスイのことを覚えててあげないといけない。もう他の人がいるからスイに話しかけることはできない。私は心のなかで「また来るからね」とつぶやいた。この言葉が聞こえたのかはわからないが、一匹のクラゲがくるりと回った。


 あの日からしばらく経ってから私は再びイルカショーが始まる時間帯にクラゲの水槽前に来ていた。あの日と同じようにここには誰もいない。
「スイ?」
 名前を呼んでも返ってこない。やっぱり私の妄想だったのだろうか。
 クラゲの寿命は一年ほどらしい。寿命を迎えたクラゲは水に溶けて消えてしまう。もしかしたらスイも消えてしまったのかもしれないし、みんなと同じように感情を持たないクラゲに戻ってしまったのかもしれない。今度は私が孤独になってしまった。話せるクラゲに出会ってしまったから、私が名前を呼んでも返ってこないことに寂しさを感じてしまう。クラゲが話せないのは当たり前だと知っていたのに。スイも同じ気持ちだったのかもしれない。仲間たちとは違い、感情を持ち話せるようになってしまったから孤独になってしまった。最初から何も知らなければ孤独を感じることもなかっただろう。しかし、スイに話しかけられたとき私は言葉を返してしまった。それは間違いだったのかもしれないが、声に気づいてくれて嬉しかったというスイの言葉を信じたい。スイと話せたあの日は特別だった。それが普通の世界に戻っただけ。
「じゃあね、スイ」
 私はあの日の特別な思い出を胸に誰もいない海の中を独り漂った。


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