お金を稼がない夫を愛せるか?〜女性性の闇の解放への道のり①
一つ前の投稿の続きです。
シリーズ1篇め↓
どうやらこのミッションはできれば春分前に完了したいので、ちょっと急いでいます、、
女性性に根付く闇の解放がメインテーマですが、今回は実際の私たち夫婦のストーリーをシェアさせてもらいますね。だいぶ長くなりそうなので、何回かに分けて書きます。
しかもまぁ悲惨な内容なので、お涙頂戴ストーリーのような内容ですが、基本的には「自分で選んで生きた人生」という事が今ではふに落ちています。誰を責める意図もありません事、予めご理解いただけたら幸いです。
さて、女性性の闇の解放に至るには、まずその闇の深さを知る必要があり、そのためにはそれを見せてくれるパートナーが必要になります。
夫の将来くんは先の投稿の一般的な概念、
「男は外で金を稼ぐんだから、女は黙ってついてこい」というタイプとはまた全然違う人でした。
出会った時、私たちは都内に住みまだ20代前半で、お互いの共通事項としては、一般的にはそこそこいい大学を出るまでは行ったが、働きたい仕事はなく、楽しいことをしながらも「世界は無意味だ」とある意味、絶望していた若者でした。
私たちは今、自給自足的な生活を目指していますが、その最初の目的は「働きたくないから」「働く意味などないから」というかなり後ろ向きなもので、私は漠然と「子育てをするなら田舎」という人生の設計図があり、出会った時点でお互いに近い未来像を持っていました。そのお互いに虚無の心を持ち合わせていたからこそ、福岡正信さんの『わら一本の革命』に心から感動し、進むべき道が定まりました。
30代になり、田舎に来て、結婚しました。
結婚も正直かなり後ろ向きで、、、その頃、私はたまたま某航空会社で働いていて、そこで出会ったキャピキャピ(死語)のレイディたちに「あなた8年も付き合ってるのにまだプロポーズしないなんて、なんていう男なの!結婚しないと別れるって脅しなさいよ!」とやいのやいのそそのかされて笑、その通りにしてみたら結婚できた、みたいな感じで。
けっきょくこちらが押し倒した、みたいな流れだったので、もちろんプロポーズもなし、結婚指輪もなし、式だけは親の援助で挙げる、というものでした。
振り返るとこれってイザナミとイザナギの最初のパターンなんですよね、、、汗。さて。
結婚して3年間、私たちは兼ねてからの念願だった、自然農に没頭しました。
福岡さんの方法ではなく、川口由一さんの自然農に魅入られ、ご本人に会いに行ったり、本当にそれはそれは美しく楽しい調和の世界で、私は生まれてからこの方、子供を授かるまでのその3年間が、最も平和で楽しい3年間だったと振り返ります。(といってもアトピーでドロドロでしたが、、、笑)
そして3年後、そろそろ、、、と願ってから1ヶ月で子供を授かりました。
自然農に没頭した3年間で、おそらく私たちはいわゆる「世間一般」とは完全に隔絶された世界に生き始めていたと思います。
世界に絶望していた若者だった私たちは、お互いの存在に感謝し、子宝に恵まれ、自分たちを「幸せだ」と、認識していたと思います。
でも、私たちは二人とも根底にもの凄い深遠な自己否定を抱えていました。もちろん、お互いに気づいてはいません。だけど、その自己否定があまりにも根深くて、自分で自分を大切にするということが一切できない二人でしたし、常に「私たちは持っていない」という共通認識を思って生きていたように思います。
産後すぐ、アパートに住んでいた私たち。その夏はもの凄い猛暑でしたが、エアコンを取り付けることを断固拒否していました。
「子供を健康に育てる為」に、外気温と内気温差が少ない方がいい、という判断です。
私は徹底して「自然に」育てることに全力を捧げていたので、もちろん自然分娩、完全母乳。布オムツ。いわゆる市販の「おしりふき」すら使うのをためらい、サラシを小さく切って、いちいち濡らしてふく。ということをしていたほどです。
しかしその猛暑もたたって、産後1ヶ月にはすでにボロボロの体になってしまい、全身に得体の知れない湿疹ができ、またアトピーのドロドロ状態に近いことになっていました。
素晴らしいお産をした助産院に1ヶ月検診に行ったら、そのあまりの変わりように「一体あなたどうしたの?!?」と助産師さんに驚かれました。
皮膚科に行くと、「ステロイドを拒否するなら入院になりますよ!」と医師に脅され、、、脱ステロイドであんなに苦労してやめたステロイドさんにまたお世話になりました。
まぁ万事がそんな感じです。
長男が1歳になった頃、ついに念願の田舎の田畑付き一軒家にご縁ができました。
それはそれは嬉しいことでしたが、私たちは常に「お金はない」という意識なので、一切リフォームをせず、汲み取り便所をコンポストトイレにした程度で、その広い家に住み始めました。
越したのは夏だったから気がつかなかったけど、冬はなんと−8℃まで下がる極寒地、、、、千葉県八街市で、です。
長野県など、寒いとわかっている地域に越したならまだしも、そんな覚悟は微塵もできていませんでした、、、まさに「聞いてないよー」状態。
断熱材ももちろん一切入ってなくて、窓はアルミサッシではなく、昔ながらの木枠のガラス戸。隙間風もビュービューだし、しかも、冬場は恐ろしいほど陽当たりが悪いという、、、、!!!!
なんと崖と大木に囲まれた家だったので、陽が低くなる冬場は、ほとんど家と庭に陽が当たらなかったのです、、、、、
オーマイガー笑
局地的にそんなに寒い状態で、まさに「修行僧が来る場所」というほどの厳しい環境で。
まぁ快適さとはほど遠い環境での、子育てと自給的生活が始まりました。
そして我が子は人一倍活発で外遊びが大好き、こちらが用意する「おもちゃ」には一切興味を示さず、とにかく手当たり次第に生活圏を乱しまくる(それが彼にとっての遊び)、空の上で神様と「大人の言うことを絶対に聞いてはいけない」と約束してきたのか?!と思うほど、こちらの思う通りにはしない子でした、、、笑
一歩外に出れば泥だらけ。
田舎暮らしに全く慣れていなかった私には、家の中に虫が飛び交い、少しするとすぐ土埃が室内に溜まり、冬場は食器の水切りがシャーベット状。外にある洗濯機は凍りつき、、生活の全てが苦行以外の何者でもありませんでした。
でも隣に住むおばあちゃんに言われちゃうんですよ、あんた達の家事はおままごとみたいなもんだ。あたしらの時は暗いうちからカマドに火入れて、日が暮れてから川に年寄りのオムツ洗いに行って、、って。
だから辛いとか大変さとか言えなかった、、、笑
そしてわたしは子供を「自然に健康に」育てるという思いが強かったので、レンチンを食事に出すことは皆無、おやつもほとんど手作り、という徹底ぶり。なんならプラスチック食器は使わない、とか。。もう強迫観念の塊です。
自分は幸せだと、盲目的に信じ切って。とにかくそれでも子供が可愛くてたまらなかったし、心身ともにズタボロになっていることにまだ気がつかなかったんです。
そうしているうちに第2子妊娠。
そのころはまだ生活のためにアルバイトをしていた夫。我が家はどこの駅にも車で20分ほど行かなくてはならない僻地だったので、駅から家の送迎を私がやり。臨月の時もつわりで吐きそうになりながら、後ろでギャン泣きをする長男に20分間、子守唄を歌いながら夫の送迎をしていました。。
あー書いてて辛くなる、、、笑
出産は前と同じ助産院。入院費を節約する為に、1泊で退院。。
11月に生まれたその年はまた本当に寒くて寒くて。喘息発作も出始めて苦しくて苦しくての中、授乳&荒れ狂う長男をなだめ、、、、、、
でも「母親なんだから耐えなくちゃ」「頑張らなくちゃ」「頑張るのが当たり前」そうやって自分をずっと鼓舞し続けてましたね。
真冬の1月、産後2ヶ月の娘をおんぶしながら、家の中でじっとしていられない長男を野外保育に連れ出したり、とにかくどこにでも行って、ずっと娘はおんぶのまま。
でも娘は本当によく眠る子で、それだけが救いでした。もう癒しそのもので、、、
可愛くて可愛くてたまらなかったなぁ。
でも娘が1歳になる頃には、完全に育児ノイローゼ状態。
毎日毎日長男を怒鳴ってばかりいました。
そしてそんな私に全く寄り添わなかった夫。
腫れ物を触るように、、、触らぬ神に祟りなし、とばかりに。。そして基本的に子育ては私任せ。
子供たちを連れてどこかに遊びに行ってくれたことは一度もありませんでした。
まぁ私がお願いしなかったんだから、仕方ないですね。
そしてある日、ついに私の顔がお岩さんのように腫れ上がって、もう悪魔そのもの笑
見かねた夫が初めて、子供2人を連れて出かけて行った。
あの時のホッとした気持ちは忘れられないなぁ。。。なんでもっと早くこうしなかったんだろう。。。と心から思った。
ある日、怒鳴ってばかりの自分が心底嫌になり、悲しくなり、耐えられなくなり、でももうどうしようもなくて、庭に出て、一人泣いていた。
長男と娘が近づいてきた。
長男が「ママなんで泣いてるの?ママのこと、だいすきだよ。。。
だから、泣かないで。ママ、だいすきだよ。。」と毎日怒鳴られている息子が、私に、言ってくれたんです。
すぐそばで「ユラも。ユラも。。」と片言の娘が言っていた。
その時、本当に。私は天地がひっくり返る思いがした。
あぁぁぁぁぁぁ。
この時初めて、
わたしは愛に触れた。
愛に救われた思いがした。
ごめんね、、、ママもだいすきだよ。。
もう。。
私は限界だ。
それをようやく、私は自分で認めた。
でも夫は寄り添わなかった。ただ「妻地雷」を踏まないことに全集中していた。
地雷を踏んだと思ったら、逆ギレして去っていった。
「俺は俺なりに精一杯、手伝ってるだろ!」と。
。。。。。
確かに・・・夫なりに頑張ってくれている。
そんな夫を責める私が至らない妻であり、ダメな母親なんだ。。
自然農で頑張っている、夫は素晴らしいことをしている。
理想の生活をしていられるのも夫のおかげだ。。。
私は感謝しなくちゃいけない。
。。。。。
世間一般的には「夫が稼いでくれているから」と、女性が言い聞かせるのと同様に、私は上の文言を繰り返し繰り返し自分に言い続けていた。
でも心の奥底に、説明のできない怒りと悲しみが溜まっていった。
それから、私は自分の限界を認めて、子供たちを保育園に預けることにした。
子供たちと少し距離を取る必要がある、と判断したのだ。
そうしたら、夫はすぐさま、農業を手伝ってくれ、という。一人では限界だから、お前の手伝いが必要だ、と。
私はもっともだ、と思って子供たちを保育園に預けている間、手伝うようになった。
でも以前はあんなに楽しかった農作業が、全く楽しくなかった。
夫に「ああやれ、こうやれ」と指図されながらやることが苦痛でしかなく、しかも私は自分が思っている以上に体が弱っていた。もう39歳だった。
今なら夫も苦しかったのがよくわかる。
お互いにしんどかった。不安ベースの、自己信頼のない、偽りの楽園生活。
でも子供たちと少し距離を置くようになって、私は心の健康を取り戻して行った。
子供たちが可愛くて仕方ない、
あぁ心が健康だと、こんなにも子供たちが可愛いんだなぁと、初めて気がついた。
世の中で「虐待」まで行ってしまう母たちの、苦しみと悲しみをその時知った。。
続く・・・・
大大感謝ですm(_ _)m