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恋人の匂いが

五感は様々な感情を引き起こすトリガーです。
今、私の両手は恋人の匂いに包まれています。その手を顔に近づけると、数時間前まで自分の目の前にいた恋人が鮮明に思い起こされます。

段ボールに詰められた冬服を取り出すと、昔付き合っていた恋人の家の匂いがふわっと香りました。その一瞬でいろいろな思い出が思い起こされて、えも言えぬ気持になりました。懐かしくて、幸せではないけど確かにそこに二人がいて、戻りたくはないけどちょこっと覗いてやってもいいかな、と思えるようなそんな気持ちになります。
正確に言うと、二度と戻りたくないし、意識しなければ憎悪の気持ちが涙のごとくじんわりと流れでてくるのですが。

匂いは変化していきます。
一年ぶりに福岡の実家に訪れた際、一般的に想起される「おばあちゃん、おじいちゃんの家」の匂いがしたのです。とても古めかしい、懐かしい匂いがしました。しかし、この匂いは自分が小学生から高校生まで育った思い出の中にはありません。記憶の中に無い匂いなのです。
実家の匂いとは何なのでしょうか。頭の中で特定の匂いを思い出そうとしても、うまく思い出すことが出来ません。

五感の情報は感情に変換されて海馬に保存されるのでしょうか。その感覚を体感すると思い出せるのに、記憶の引き出しから感覚そのものを取り出すことは至難の業です。

私はわたし特有の匂いがあるそうです。とりわけ強く香りが出る部位、例えば足や脇、髪の毛などからは自分でも認識出る匂いがあります。あまりいい匂いではありません。

今わたしの手にまとっている匂いは、恋人の人間的な匂いではなく恋人の香水や家のデフューザーの匂いです。その人工的ないい匂いにふわっと混じるその人のエッセンスが相まって、ただのいい香りではなく、その人たらしめる香りとなっています。

手の匂いを嗅いでは恋人の安心する香りが、一層自分の臭さと醜さを際立てるようで虚しくなります。

みなさんは自己肯定感について考えたことはありますか?
たいていの方は自己肯定感について友人と意見を交わしたり、あるいは向き合ってみたりしたのではないでしょうか。
私の恋人は、私の自己肯定感を普通レベルに引き上げてくれました。

以前までの私は、「臭い私が好きなんて私の恋人はセンスがない」と思い込んで、相手の言葉を素直に受け取ることが出来ませんでした。可愛くない女ですね。相手の誉め言葉の裏には何か隠されている、と常に考えていました。例えば、「かわいいと褒めれば簡単にヤれそう」「褒めて上機嫌にさせてご飯をおごってもらおう」など、可愛くない私にポジティブな言葉を投げかけるなんて、真の目的を遂行するための手段でしかないと本気で思い込んでいたのです。
今の私は、「臭い私が好きなんてあんたセンスあるわね、面白い男」といったかたちでしょうか。とても強気な態度に変わりました。自分が臭いとか臭くないとか言う議論よりも、もっとすべき議論が増えたというのも変化の一因です。そして、恋人がどんな姿の私でも受け入れてくれるだろう、という信頼感が構築されたことで、私の内面から変化していきました。

私のこの独特の体臭を、恋人が覚えてくれていたらいいなと思いながら、今日も丁寧に体を洗います。恋人にとって私が忘れられない存在になればいいのに、と思いながらゆっくり石鹸を泡立てます。もし本当に忘れられたくないならば、一週間くらいお風呂に入らなかったらいいのにと、この文章を書きながら考えたけれど、彼女が一週間お風呂入らない人だったら嫌だな、動機もメンヘラみたいだしな、とその考えを払しょくしました。

ときどき、ある匂いをもう一度嗅いでみたいという思いに駆られるときがあります。学校の近くにあったパン屋の匂い、小学校の図書館の匂い、部室の匂い、実家にいたペットのデグーの匂い、母親のコロッケの匂い。
そのほとんどが物理的にもう嗅ぐことが出来ない匂いです。学校の近くのパン屋は、人手不足で閉店となり、その跡地にはしょうもない菓子屋ができました。小学校は取り壊され、今では小学校とは思えないほどピカピカの校舎になりました。部室は後輩が卒業してしまったため、あの時の部室はもう無いでしょう。実家にいたデグーはもう亡くなってしまいました。
母親のコロッケは、母親のコロッケはきっといつでも食べることが出来ると思います。こんなことを言っている間に、きっと食べることが出来なくなるんだろうな。

自分が懐かしむものの代わりはどこにも存在しないと思います。大事な場所に我が物顔で建っているしょうもない菓子屋は、自分にとってとても陳腐に思えます。探しても探しても、あの時のあんぱんの匂いはしないのです。

だからこそ、今たいせつな恋人の匂いを必死に必死に脳に刻んでいます。匂いを嗅いだ2秒後にはもうその匂いを忘れてしまうけれど。

連絡先:natsu.parumu@gmail.com


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