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ソーシャルなんとか|Back to the 平安時代?

下書き保存の日付を見ると、何とこのnoteを書き始めたのは6/27。先月!!! どんなけ放置しとるのよ私……。でも、何となく、これは書き記しておきたいことなのでめげずに書き上げたいと思います。

皆様お元気ですか。九州の豪雨が心配ですが、募金くらいしかできません。私自身はすこぶる健やかですが、マスクの蒸れと、マスクの隙間から吹き出る呼気と空気中の湿気によって毎朝せっせと巻いている髪が1時間と保たずドストレートに戻る日々にイライライライラしています。今週末にパーマ掛けます。……本題に参ります。

「最近、めっちゃ『平安み』あると思いません?」

……何かの話の流れで、隣の席の同僚にこう問い掛けたら、同僚は「……んっ??」となっていました。「目が点」の見本みたいな顔。モノローグをつけるとしたら「急に何の話始まった???」みたいな顔。

私は古文は中学〜高校の教科書でしか学んでいませんし(高校時代なんて古文漢文は平均点がせいぜいでした)、受験科目で日本史を選びはしたものの歴史に深く興味があったわけでもなく……平安時代の何を知っているかと聞かれたら「教科書に書いてあったことを断片的に覚えている、かも」としか言えない、その程度の普通の人です。

ただ私の幼少〜高校時代(1980年生まれ〜1998年)の頃はまだネットも無く、日常のなかのエンタメ 兼 情報源といえばTVが全盛の時代。我が家は20時以降は子供はTV禁止の家庭だったので、学校から帰宅して20時までが私のゴールデンタイムでした。

制約がある分、縛りのなかで視聴できるTV番組は貪るように何でも観ていたのですが、大好きだった番組のひとつに、紙芝居アニメと現代語訳で子供にもわかりやすく、しかし内容はオトナの世界だった「まんがで読む古典」がありました。

あと扱っていた時代はグッと変わるけど「コメディーお江戸でござる」とかもめっちゃ面白かったよねぇ……(2005年、杉浦日向子さんの訃報を聞いた時は本当にショックでした。46歳、若すぎる)。

この幼少〜10代という、スポンジのように知識を飲み込む年の頃に強い関心を持っていたにも拘わらず、その後に古典や歴史への興味を全消失させた学校教育って一体どうなってたんでしょうね(笑)。もちろん、私自身の資質の問題だった可能性も否定できませんが。

して、「平安み」とは何か。

先に白状しておきますが、浅いですよ! ザ・浅薄ですよ!

へいあん-み[平安み]
(1)御簾越しの恋
(2)和歌

以上です!

ねっ!? いや〜〜やっぱり今これ、平安きてると思います。
令和は平安リバイバル!!!

まあ平安当時の「平民の暮らし」はどの科目の授業でもまずほとんど触れられなかったし、貴族社会に比べたら記録も実際たぶんそんなに多くないだろうと思うんですよね。菅原道真が何かいろいろ書いてた気がするけど(平民の暮らしについて)、菅原道真って何時代でしたっけ? あ、平安ですね、良かった良かった(←ググりました)(←こんなレベルです)。

でも今ここでは菅原道真は全然関係ありません。どちらかというと源氏物語とか、皆が知ってる「平安時代」の話、つまり貴族社会という限定的なコミュニティの話ではあるのです、が。

御簾越しの恋、なんですよね。

フォーリンラブからゴールイン(結婚)まで、ずーっと御簾越し。

なんなら使者に和歌やら文やら持たせてのやりとりをして御簾越しですらない場合も多々あって、初めましてのご対面は初夜ですよ初夜。今この時代の私たちの感覚だと、初めましてからのベッドイン、なんて「ありえない!」という人がマジョリティではないかと思います。

でもね、明治〜昭和初期頃なんて歴史的には比較的最近の話ですが(私の祖父母や曽祖父母くらいの時代ですよね)、例の悪しき家父長制のおかげで女性の多くは祝言当日に自分の夫と初対面だった、なんてこともあったわけで(実例:私の祖母)。

そんな悪しき近代と比べれば、顔と顔を合わせての対面は無いまでも、当人同士が文や和歌でコミュニケーション取れてた平安時代の方がかなり健全。そんな気がしませんか。

そんな御簾越しの恋に欠かせなかったコミュニケーションツールが、和歌です。

「超短文」コミュニケーション

御簾越し(対面なし)の短時間の逢瀬で、その日その時の心情や恋情を交わし合う。サッと記した5・7・5・7・7(31音)の和歌にその人のセンスが凝縮されるわけです。

ん? この超短いテキストって……

Twitterじゃない?
LINEじゃなーい???

……Twitterは1回 MAX140字として、LINEってどうなんだろうと今ちょっとググってみたら!(すぐググる)

高校生の暗黙ルール、1回15文字!!! ですって!!!
へぇ〜〜へぇ〜〜……ほぼ俳句(17音)じゃん!!!

すごいな、現代の高校生。今この話とは関係ありませんが、去年の初め頃から俳句習ってるんですよね私。めっちゃ楽しい。そして奥深い。実は今週末にも俳句教室があり、今日、仕事の移動の運転中に一句できて俳句用のTwitterアカウント(非公開)に書き留めました(笑)。

「日本人はすぐ略したがる」みたいな言い方で言葉の短縮を非難するような風潮が一昔前はあった気がするんですけど(苦々しく思ってる人は今もいそう)、今なんて「み」とか「りょ」とかで会話してますからね、若者たち。「特定のコミュニティ内では」という前提付きだとしても、それでちゃんとコミュニケーションが機能するんだから、「記号の一種である言葉」としては問題が無いわけですよ。

そもそも、平安の昔から日本人は和歌という超短文コミュニケーションが一般化されてたわけで(それ以前の漢詩にも五言絶句とか短いのがありますけど「詩の歴史」が本題じゃないので遡りません。というか遡れるほど知識ありません)、「日本人はすぐ略したがる」── 「そうですが、何か??」ってなもんですよね。短い言葉にどれだけの意味を詰め込み共有できるかの勝負ですよ(いや、勝負ではないけど)。

ただもちろん平安時代はもちろんオールアナログですから、今流行りの言い方で言うと「フィジカル」が伴うわけです。これ、聴き慣れない方はウッカリ直訳しないでください。「肉体」じゃなくて「物理」の方の意味です。そう、和歌を書き記して贈るための短冊や扇子、そして肉筆

この肉筆の筆跡や、短冊・扇子の質、そこに焚きしめられたお香なんかでもって相手の教養やセンスや、何なら懐具合までをも情報交換してたんですよね。

「うわ、こんな高価なお香がこんなに強く香ってるなんて……どこの高貴なお方なの!?」とか。

「この流れるような筆遣い! それに、一見ただ月を詠っているだけの一首だけど、これってさりげなくあの漢詩の一説を下地にしてるよね……この短時間でこんな返歌が詠めるなんて……スーパーインテリ&ハイセンス! トゥンク…/(//ω//)/」とか。

相手の顔こそ知らないまでも、実はなかなか、情報量は多い。

そして「短さ」以外にもSNSとの共通点はまだあります。

御簾越しのダイレクトなやりとりならもちろんのこと、使者から届けられた和歌にはASAPでリプしないと、3日とか1週間とか待たせちゃうと「え……返事こない……ふられた……? 悲しみ! そして死!」って、平安時代の人ってわりとすぐ鬱で寝込んだり死んじゃったりしてたので、かなりの重要度でクイックレスポンスが必須だったんですよね。

平安貴族って家の奥深くに閉じ籠ってばっかりで、絶対運動と栄養が足りてませんよね、ホントすぐ死んじゃう。こういうところも現代のヤミ(病みと闇をかけて)とちょっと共通点かもですね。

逆に共通していない点としては、Twitterのように見知らぬ誰かがやりとりの途中に乱入してきたり、うっかりそれが一夜にして5万人の大論争になったりという事態は短歌の交換では絶対起きていなかっただろう点ですかね。真面目に考えたら他にもあるかもしれませんが。

そして、「御簾越し」の恋(人間関係)

「御簾越し」が現代の何と共通するかといえば、そう、マスクです。ナウでホットな生活必需品ですね、世界中で!! もうホント最近蒸し暑くて息苦しくて、私なんかは隙あらば外していますが……。車の中(一人の空間)とか無言でのデスクワーク中とか(くしゃみが出そうな時は猛スピードでマスク着けてます。めんどくさいけど)。

そしてもうひとつ、画面です。

大人も子供も、いわゆる「現役世代」と呼ばれる人ならもうほぼすべての日本人が「オンラインナントカ」を一通り経験されているんじゃないかと思います。なので、ビデオ通話であっても生の対面よりは得られる情報が何割か減になることはどなた様も体験を通してご存知のことと思います。

私は見知らぬ人同士が集うzoom交流会なんかも参加していますが、そういう場ではビデオoff(音声のみ)の参加の方もいたりして、平安時代でいえば「家からは出てきたけど籠に乗ったまま姿は見せない」みたいな状態ですよね。

で、ビデオonであっても、お互いが高精細カメラ&通信環境5G&ライティングばっちり、みたいな状態でないと、相手の実際の顔色(体調)や本当の声質は分かりません。

私の感覚でいくと、リアル対面だったら目尻の小皺や首周りの肌質、手の甲の血管の浮き方なんかで相手の年代が訊かなくても推し量れるものが、画面越しだとそういう判定が全く効かないんです。

対面だとするとマスク着用が今は必須ですから、相対している相手の、とりわけ視覚情報がものすごく制約されている、それがここ最近の世の中です。

人は見た目が9割』なんていう本が、大ヒットしましたよね。

ああもう15年も前の本なのか……。この「見た目」の部分がざっっくり、削られてるんです。見た目を武器にして生きている人(モデルさんとかではなく)からしたら、ここ最近は何だか妙に色々やりづらい……と感じているんじゃないでしょうか。でも私は、個人的には「これはもしかすると、良い流れだな……?」と感じています。

さよなら、ルッキズム

美醜についての価値観も時代につれて移り変わるとはいえ、括りの形が変わるだけで、美醜の判断はするし、されてしまうのが人間なんですよね。自分自身に対しても、美醜の評価をしてしまうのが人間。人と比べて、良い気になったり、落ち込んだり……。

でもよく言うじゃないですか。「人間は中身だ」って。ルッキズムに圧されつつも、それでも「中身だ」という人は絶えたことがありません。

「マスク」と「画面」を挟んだコミュニケーションによって、相手のビジュアルが見え難くなっている今、今日この頃、「人間は中身だ」という価値観が、いよいよリアルな土俵になってきたな──! と、感じているのです。

そしてふと連想したのが、

「この流れるような筆遣い! それに、一見ただ月を詠っているだけの一首だけど、これってさりげなくあの漢詩の一説を下地にしてるよね……この短時間でこんな返歌が詠めるなんて……スーパーインテリ&ハイセンス! トゥンク…/(//ω//)/」

相手の顔は知らぬまま、知識やセンスなどの人間性に恋をする平安時代。

現代においては、恋に限らず仕事でも何でもだと思うんですよね。「できる風」だけど「やってる風のパフォーマンスが巧いだけ」で「実は何もやってない人」って、いるじゃないですか。

そう、先述の「見た目を武器にして生きている人」です。

この場合の「見た目」は美醜に限った話ではなく、パフォーマンス的な意味も含まれます。

パフォーマンスは現場の士気を上げたり空気を変えたりすることもあるので、何もかもが無意味とは思いません。あと、美醜についても自分や他人との比較対象でさえなければ、見目麗しきことは眼福眼福目の保養、ですから、美しい人やものがこの世に在るのは“神様ありがとう案件”ですよね。

でも、これから破滅的な勢いで人口が減っていくこの国で、たとえば企業の採用面接で「人は見た目が9割」的な判断(視覚情報に引き摺られる脳の働き)でもって、能力のある人が見目の良い人に差し置かれて仕事のチャンスを逃す、なんてことは無い方が良いと思うんです。

いや、無い方が良いに決まってる。

第一印象に引き摺られる前に、人間性を受け止める。Face to Face よりも前に、Faith to Faith(信頼)でつながる人間関係──なんだか、良いな〜と思いませんか? 対面し、場を共有することで生まれる感情や熱量はもちろんありますし、それはそれで大切なもの、意味あるものだとも思っています。でも、先に信頼関係が築かれている上での「初めまして」から得る情報は、信頼関係無しのそれよりも、きっともっと良質なものになるんじゃないでしょうか。エシカルなもの、と言っても良いかもしれません。

姿形の美醜ではなく「身嗜み」の方の意味では、きちん・きちんとしている人の方が、仕事の面でも折り目正しく振る舞える可能性は高いだろうな、とは思います。でもそういう「人間性の部分」って、視覚情報以外からでもかなり得られるものは多いというのはもうこれだけ平安時代を例に挙げてきましたので、追加は必要ありませんでしょう!

最初キョトンとしていた同僚も、以上の話を掻い摘んで伝えたところ、「そうかも!!」と同意してくれて、その後しばら〜〜く笑っていました。

口で話せばすぐ終わる話も文章にするとこんなに長くなっちゃって、どうもすみません。笑

「最近、めっちゃ『平安み』あると思いません?」

おわり。

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