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あなたのことを「 」います

 玄関の扉を開くと、そこには今日も猫がいた。じっと有紀の姿を見ながら視線を離さず、微動だにしない。玄関の扉を閉めて、何も気にせず歩き出すと、ついてくるわけではないが、視線だけはその姿を追っていた。

 いつからだろう、と有紀は思い起こしながらも、大学の課題のほうが気になってすぐに思考が切り替わる。そろそろ、しめきりなのだ。

 季節の深まっていく空模様はその変化とともに焦りをつれてくるような、そんな気配を感じさせる。しだいに冬に向かって寒さを感じ始め、脳みそも冷え切って思考が鈍る。震えながら待つのは、時間がただ過ぎていくだけの無駄な行為だと、無情にも突きつけられる。

 はぁ ため息は空にのぼって雲になり、有紀の頭に雨を降らせる。しかし、未だ書き始めていない頭の用紙はいくら濡れても問題なく、思考はむしろ冴えてきたーーような気がしていた。

 バスにゆられながら本を読む。内容は、入ってこない。誰も彼もが押し黙って下を向いている。アナウンスだけが、響き渡っている。

 バスを降りて電車に乗り換え、駅に着く。

 大学までの道のりは古めかしい街並みの雰囲気が残る場所で、両側に店や民家が広がっては通りをそれなりの人が歩いている。路地裏はまるで抜け道のような風情があり、思わず入りこんでは道に迷う、ということを、有紀は懲りずに繰り返していた。

 そうして、大学の講義を終えてから、改めてしめきり日を突きつけられると、ますます気持ちが逸ってくる。しかし、かといって何をするわけでもなく、いつものようにおもしろい路地裏に入っていくと、そこには猫がいた。そのとき、

 ふっと 有紀は、思い出した。

 以前、同じように路地裏に入って見つけた猫に声をかけながら近づいて、妙に気に入られて足まで擦り寄り、かわいらしい鳴き声をかけてくれたときのことを。

 今回の子はすぐに逃げてしまう。

 その姿を見送ると、ぱーっと脳裏に光が差しこみ、薄ぼやけていく視界に映る風景が消えていったと思ったら、心に灯されたその記憶に、すべてが完成されていた。

 有紀はいてもたってもいられずにすぐさま家路に向かうと、電車でもバスでもノートを開いてすぐさま書きこんでいった。

 家に着くと、猫が「にゃーん」と出迎えてくれる。

 有紀は、なんでこれまで返してこなかったのだろう、という反省を胸に秘め、猫の目線に合わせてしゃがみ、手を差し伸べながら「にゃー」と声をかける。

 猫はその手に誘われるままに近づいてきて、愛くるしいまでの眼差しを向けたと思ったら、その手に頭をよりかけた。

 そうして、そのまま有紀は猫を抱き寄せると、しばらくの間そうして抱きしめていた。

 そっと 猫をおろすと「にゃーん」と声を上げて すっと 行ってしまう。一度振り向くと、その後はもうすぐさま姿を消してしまった。

 猫の姿が見えなくなるまで手を振っていた有紀は、消えていったその方向に頭を下げて、玄関の扉を開ける。

「にゃー、にゃーん」

 と、振り向き、想いを言葉に乗せて声をかけると「にゃーん」と返事が聞こえたような、気がした。

 そうして、次の日の朝、玄関を開けた先には猫がいて、有紀を見つめている。有紀はそれに応えるように手を ひらひら させながら声をかけると、晴れやかな顔で大学まで向かっていった。

 その姿を見送りながら、

「にゃー」

 と、猫は、言葉を、かけた。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。