私をイメージする
私がイメージする私は、どんな人なのだろう。
他者がイメージする私は、どんな人なのだろう。
その違いは なんだろう。
ジョハリの窓、ともまた違う、自己イメージにおけるすれ違い感。
私が思う私を、本当に、私は知っているのだろうか?
私がイメージする私は、もしかしたら理想かもしれなくて、本当の私ではないかもしれない。
こう考えていくといつも、本当とは? なんていう考えが堂々巡りしてしまうのだけれど。
私の本質を、本当に私が捉えているのか、それはわからない。まして、他者がそれを知っているとは、とても思えない。
……いや、もしかしたら、他者のほうが、外側から見ているほうがむしろ、本質を捉えているのかもしれない。意外と、意外ではなく。私の行動を、外側から実際に眺められるのだから。
私が思う私を意識して、そう振る舞ってしまうこともあるかもしれない。
他者が思う私を意識して、そうふるまってしまうこともあるかもしれない。
それなら、私、とは。私とは、何者なのか?
私が何者かも知らずに私として生きていく、こと。
そのイメージの違いはなんであろう。
それとも、違いなど、ないのだろうか。
私って、本当は、どんな人なのだろう?
そんなことも知らずに、心を眺めようとしてしまう。そんなことを知らないから、心を眺めようとしてしまう。心を、見てみたく、なってしまう。
そこから、ずっと、離れられない。
離れられないで、いる。
いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。