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三島由紀夫の小説など【その1】(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録7)


1.そもそも三島由紀夫の何に惹かれたのか?

この「昔読んだ小説の記録」のシリーズで、私は小説の内容ではなく形式に焦点を当てて記述して行こうと思っていた。
五十年位前に読んだ小説を、記憶のみを頼りとして記述して行こうという計画であるので、内容―ストーリーや登場人物等―や、「作者の思想」なるものを書いたり紹介したりするのはかなり難しいということもある。それだけではなく、もともと私の「小説」に対する興味が、形式やスタイルの側面に偏っていた、ということもその理由の一つである。
しかし、幾つかの小説を対象として記述を試みて行くと、それも同じようにかなり難しいということに気付いた。

私はまた、このシリーズで、昔読んだ小説のうち覚えているもの―約500編程度か―のすべての記録を(出来るだけ早く)作ろうと意図していた。それを考えると、特別な知識源を参照しないという原則を貫く限り、出来るのは、それぞれの小説について簡単な感想めいたものを記述すること位しかない。

それをする中で、可能なものに限っては、物語の形式・スタイルや、物語の内容(ストーリーや登場人物等)や、作者の思想、その他のテーマについて、記述するという方針である。
さらに、実際に書いてみると、ある対象としての小説を読んだ時期の個人的な状況、文脈にも、しばしば触れることになった。従って、この種のものも記述内容に含めて良い。

但し、何れの比較的詳細な記述も、「出来れば」という場合に留め、通常は、単なる感想めいたものの記述でお茶を濁す、という原則に、改めて立ち戻る必要がある。
そうでないと、出来るだけ短い期間に、出来るだけたくさんの小説を取り上げる、という最も重要な原則に従うことが出来なくなってしまうからである。

今回は、一つの作品を取り上げるのではなく、一人の作家を選び、その作家の多くの作品に関する、それぞれ極く短い感想めいたものを記しておきたいと思う。
個別の作品の感想やその他の論評の規模が大きくなってしまう時は、後に独立した記事に回すこともあるだろう。

取り上げる作家は、あの三島由紀夫である。
今まで、学術的な論文の中で、三島由紀夫について何度か扱って来た。

例えば、次の英語の書物中の私の担当の章(An integrated approach to narrative generation: From Mishima and kabuki to narrative generation systems)では、小説『午後の曳航』を分析・検討対象とした。

次の英語の本の中では、比較的短い記述ではあるが、三島由紀夫の生涯の概略を辿り、その思想についても言及した(Areas of Narratives or Narrative Genres)。

 次の日本語の単著には、上記をバージョンアップする論考を一部に載せた。

 三島由紀夫が切腹して死んだ二年前には、川端康成がノーベル文学賞を受賞しており、私の中の「文学流行り」も既に始まっていた。
その時川端ではなく、三島が史上最年少でノーベル文学賞を受賞していたらどうだったか、その前に果たしてそれはあり得たのか、といった議論は繰り返し現れるが、私個人にとっては、この「二段階」というのも重要だった気がする。
両者にとって、「日本」や「日本文化」が、特権的概念としての地位を得ているが、それぞれの文学には大きな差異がある。

しかし私にとっては、二人の文学のスタイルには非常に類似したものがあった。
それは、その多くの小説において、一つの段落の規模が小さく、従って改行が多い、ということであった。これは一見取るに足らないことのようにも見えるが、私にとっては重要な問題であった。
どうも、昔の小説の読書において、私は、ページをめくり、改行の多さ(少なさ)、空白の多さ(少なさ)、漢字の多さ(少なさ)、平仮名の多さ(少なさ)等の、極めて形式的な要素をまずはチェックしていたように思う。
そんな素朴読者としての私にとって、小説の・物語の形式とは、ジュネットが言う類の高次の物語言説ではなく、そこからは弾かれてしまう、より原始的な形式的・様式的特性なのであった。

そしてこの点においては、川端康成と三島由紀夫との間には共通の性格があったのだ。
無論、極めて論理的で理詰めな三島由紀夫の文章と、極めて直観的で飛躍の多い川端康成の文章とは、本質的に異質なものである。しかし、改行が多く一つの段落の規模が小さいという両者に共通する特性は、表層的には異なるが本質的には類似しているそれぞれの理由に基づいているように思う。
恐らく、三島の場合は、物語上の論理展開における一単位が一段落に対応し、そしてこの単位は論理的結構を無視してだらだらと続くようなものであってはならなかったのだろう。
一方川端の場合は、詩的直観の一単位が一段落に対応し、この小さな単位の連鎖を通じて物語というものが紡ぎあげられて行ったのだろう。

私の癖は、段落の規模、改行の多さ・少なさが気になるということであり、三島のようなスタイル、川端のようなスタイルに特別な好意を感じる、ということは意味していなかった。寧ろ、その種のスタイルとは逆の、正反対のスタイルを持った作家に対する興味にも繋がって行った。

例えば、少し後の時期になるが、私は埴谷雄高の作品―そもそも小説は少ないので、小説だけではなく、それよりも分量的には遥かに多い評論的作品を含めて―に興味を持ったが、その理由の大きな部分は、その、三島由紀夫あるいは三島由紀夫的なものとは対極的な、文章上のスタイルであった。それは、個々の文章のスタイルとも関連している。三島や川端の個々の文は、それ程目立つ訳ではないが、比較的短いと言える。それに対して埴谷の個々の文は、非常に長い。

同じく、谷崎潤一郎の作品、ジャン・ポール・サルトルの一部の作品等の中に、私は改行が極めて少なく、個々の段落の規模の大きい作品の具体例を見出した。さらに、南米のマジックリアリズムと呼ばれた多くの作品群も、そのグループに属していた。
無論、前に記事を投稿した、カフカの『城』、特にその中盤の部分等は、その筆頭であった。

そんな素朴な意味で、小説・物語の形式・様式・スタイルに惹き付けられた私が、三島由紀夫の小説に見出した、改行が比較的多く、一段落の規模が比較的小さいという特徴は、しかしながら、それによって三島由紀夫の小説が特別に好きになったり嫌いになったりする、というようなものではなかった。

他のあらゆる作家の小説以上に、三島の小説群に私が最も惹かれた強烈な特徴が、その文章表現上の技法、修辞であったのは、間違いないと思う。

例えば、『金閣寺』という、三島の代表的な小説と言われている作品を通読する前に、その最初の数ページを、繰り返し繰り返し読んだ記憶がある。また、三島の『春の雪』における、最後の方、大和平野に雪が降る場面も、繰り返し繰り返し読んだ。(同じようなことをした記憶がある他の小説として、福永武彦の『草の花』の冒頭や、noteで前に紹介したヘミングウェイの『武器よさらば』の冒頭がある。)

私にとっては、兎に角三島のあらゆる小説のあらゆる文章の、鋭角的で研ぎ澄まされ、論理的で、珍しい言葉や難しい漢字をたくさん詰め込んだ、キラキラした文章が、衝撃であり、憧れであった。

何よりも三島由紀夫は、文章であった。
さらに、今の時代において、殆ど使われることのなくなった言葉、ほぼ死後に類する言葉となったかの感がある、「文体」であった。

そう言えば、あの頃、私は、三島由紀夫のみならず、川端康成も、ヘミングウェイも、フォークナーも、大江健三郎も、上述の埴谷雄高も、谷崎潤一郎も、高橋和己も、野間宏も、武田泰淳も、中上健次も、サルトルも、カミュも、無論ジョイスも、ヴァージニア・ウルフも、ヘンリー・ジェイムズも、「文体」として読んだ気がする。

従って、私が言っている小説の「形式」とは、第一義的には、ここで言う「文体」であり、物語言説論が言うような意味での、物語の形式とか、そんな難しいものではなかった気がする。

このシリーズにおいて、物語の形式・スタイルについて書こうとし、書くのが難しいのに気付いた、というのも道理である。しかも、今気が付いたこの「文体」というものを説明しようとしても、どうやってそれをすれば良いのか分からない。取り敢えずは、感想的な記述を試みるしかない、ということになる。
このような意味では、「感想」という言葉にも、意味があったのかも知れない。

 以下、昔読んだ三島由紀夫の小説(等)を、思い付くが儘に選んで、一つ一つについて少量ずつ、感想めいた文を付して行きたい。
状況・文脈、ストーリーや登場人物等の物語の内容、物語言説的な意味での物語の形式やスタイル、等の記述を排する訳ではない。
しかし、それらに拘り過ぎると、短い時間で多くの数の小説を(そしてそれぞれの記述量は小さく)、というこのシリーズ作成のコンセプトに違反してしまう恐れがあるので、大雑把な括りにおける「感想」の記述を目指す。

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