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フランツ・カフカ:城(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録6)

小説を読む面白さにはいろいろな種類があり、ストーリーの面白さはその代表的なものである。しかしストーリーは小説に特有のものではなく、歌舞伎にも映画にもマンガにもゲームにも共通する、物語全般における要素の一つである。
歌舞伎とも映画ともマンガともゲームとも異なる小説特有の要素は、言葉による物語の表現の側面である。言うまでもなく、歌舞伎等の芝居にも映画にもマンガにもゲームにも言葉という要素は現れるが、小説の場合、そのすべてが言葉によって表現される。小説の本には、しばしば絵という要素が挿絵という形で現れるが、しかしその場合でも絵が物語の中心なのではなく、絵という要素は言葉としての小説を補足する要素である。作家自身が言葉による物語に加えて絵も描く場合もないではないが、それは例外であり、多くの場合は小説のための挿絵は、その小説を言葉で書いた作家とは異なる画家が描く。
といったことを註釈した上で、今まで読んだ小説の中でどんな小説が私にとって面白かったのかと考えて見る。すると、フランツ・カフカの『城』という小説がその筆頭近くに来る。『変身』にもびっくりしたが、『城』はそれを上回った。
 
なお、今まで読んだ小説の中で最も面白かった小説は何か、という質問を自分で設定しても、答えることは出来ない。最初に述べたように、面白さにはたくさんの要素があり、しかしそれらの要素を意識的にリスト化している訳ではないので、面白った小説の名前が次から次へと出て来てしまうからである。
それなら面白さの要素をリスト化することが出来、各小説について要素ごとの採点を行なうことが出来れば、自分にとっての面白い小説ランキングを作れることになるが、それはこれからの課題としておく。
既に取り上げた有島武郎『生れ出づる悩み』もヘミングウェイ『武器よさらば』も、私にとって最も面白い小説と言って良いものだったのは確かだ。しかしそれだけでなく、アンドレ・マルロー『人間の条件』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』、福永武彦『海市』、舟橋聖一『ある女の遠景』、泉鏡花『日本橋』、ヘルマン・ヘッセ『デーミアン』、イワン・ゴンチャロフ『オブローモフ』、アルベール・カミュ『ペスト』、三島由紀夫『豊饒の海』、川端康成『雪国』、大江健三郎『個人的な体験』、野間宏『青年の環』、アレクサンドル・ソルジェニーツィン『収容所群島』、ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』、紫式部『源氏物語』、源信『往生要集』、作者不詳『平家物語』、為永春水『梅暦』等々、私自身におって面白かった小説は多数あり、またそれらの順序付けは、少なくとも直観的には無理である。
 
私から見ると、カフカは、書くべきこと、この世の中で実質上意味のあることは出来るだけ書かず、書くべきでないこと、と言うよりも、書く意味のないことだけを、積極的に書いていた作家である。
カフカは生前小説を全く発表していなかった訳ではなく、短編小説の作家としてはそこそこの社会的評価も受けていた。しかし三つの長編小説―『審判』とこの『城』と『アメリカ』(私はそのタイトルで読んだが、今はもともとのタイトルである『失踪者』で翻訳が出ている)―は何れも生前発表されず、しかも三つとも未完結であった。
カフカの小説の多くにおいては、書く意味のあることが殆ど記述されていず、書かれても全く意味のないことだけが多量に書かれている。以前記述した『変身』にもそれは言えるが、特に『審判』、そして特に『城』に、その特徴が、極まっていると言える。
その記述の特徴が、何時まで経っても主たる登場人物が対象の中核に辿り着けないストーリー(というものがあるとして)の特徴と綯い交ぜになっていることについては、恐らく(調べた訳ではないが)、多くの論評文があるだろうから、ここで今更論じても仕方のないことだろう。
そういう評論の常道を行くのは私には無理なので、ここでは、敢えてそういう言い方をしてみるのも面白いと思うので、私がカフカ、特にその『城』という小説から「学んだこと」を、思い付くがままに箇条書きにしてみよう―
 
   小説においては、ストーリーや意味を表現しなくても良い(→表現する必要はない)、
   小説は、どんな書き方をしても良い(→読者にとっての「読みやすさ」などというものは、一切考慮しなくて良い)、
   例えば、「段落」というものを、限りなく少なく使用しても良い(→使用しなくても良い)、
   ある出来事についての説明や理由等は書かなくても良い、
   逆に、説明や理由等だけを書いたとて構わない、
   小説の文章においては、只管に書きたいことだけを、書きたいように書けば良い(→「小説の文法」のようなものが仮にあるとしても、それは事後的に解釈され得るというだけのもので、作者が予めそれに従う必要は一切ない―但し、こういう説明になると、かなり微妙ではある)、
   例えばストーリーを全く思い付かないような場合、微細なエピソードだけに執着し、それを引き延ばすことだけで空白を埋め尽くしても良い(→小説の中の世界は、この世の時間・空間の物理法則に従う必要はなく、例えばいくら時間が間延びしても、異なる空間の瞬間移動のようなことが行ったとしても、等々、構いはしない)、
   もっと卑小なこととして、小説中に現れる人物には名前が付いていなくも良いし、勿論付いていても良い、
   小説は、発表することを目標として、書かれなければならないものではない(→書いた後、焼き捨てても、ゴミ回収車に乗せてやっても良い)、
 
その他にも考えればいろいろあると思うが、切りがないのでこの辺でやめる。
 
考えるまでもなく、私がカフカから「学んでしまった」のは、小説というものから、可読容易性、読者への親切、そもそも読者という存在の考慮、恐らくは諸々の文脈において存在するのであろう(切り取られた範囲における)社会的受容可能性を保証するための「小説の文法」の無視乃至無考慮、といった、「小説読本」に書かれるべき規範的項目とは全く背反する、諸々の事柄であった。
それでもカフカの小説自体は、作者の生前の想いには反していたのかも知れないが、死後世界中に読者を拡大し、今でも読まれ続けている。恐らく、それが様々な意味で面白いからであろう。
但し、私がカフカの作品を続けて読み、確かにカフカの作品が流行していたと思われる、1970年代初頭と比べて、現在カフカの作品が社会から、読者から、どのように受け入れられているのか、あるいはいないのか、私は知らない。その当時もカフカの小説は既に古典扱いであったが、今ではその「古典度」はさらに高まっているのであろう。
あるいは、カフカの小説に見られると言われる「迷宮」(乃至「迷宮性」)のようなものは、現在の社会においては様々な箇所にリアルなものとして存在しているので、その衝撃度が弱まってしまっているのではないか、といったことも考えざるを得ない。

例えば、現在の「文章の世界」を眺め渡してみると、SNSの世界などでは、最早カフカの世界をまさに古典として遇する他にないような、シュールで迷宮的な状況が展開されているようにも見える。今では、小説における文章は、社会における文章に負けてしまっているのか?
仮にそうであったとしても、現在社会に流通する文章群には、カフカの文章から私が学んだ事柄の中に含まれる、文章における可読容易性の拒否、といった特徴はあまり見受けられないように思う。文章力のなさからシュールになってしまったような文章の事例はふんだんに観察することが出来るが、本質的な可読容易性を拒否するような文章は、SNSの世界からは拒絶される。そんな時代に、最早カフカの小説など流行らなくなってしまっているのかも知れない、という風にも感じられる。
あるいは、現行のSNSや社会的文章規範に全くそぐわない文章や小説の書き手は、フランツ・カフカという人物が生きていた時代に、無名な兼業作家であるに過ぎなかった―周知のように、カフカの本職すなわちそこから金を得ていた職業は、そこそこ優秀なチェコはプラハの公務員であった―カフカのように、無名のまま、世界のあちこちに棲息しているのかも知れない。
SNSがあるからそういう人種もかつてよりは世に自分の創作物を発表しやすい、という理屈も正しいだろうが、そういう理屈さえも超えざるを得ないような、変態的な無名作家が、世界のあちらこちらに存在し、今のSNSなどぶち壊すような、何らか別の方法でその異常な作品群を発表するに至る―そんな未来を期待してしまう。

今や日本のSNSの世界は、例えば「東京大学教授」や「東京外国語大学教授」などといった「専門家」をやけに強調する腐り切った、腐臭を盛大に放ちまくっているような人種が、そのリアル社会における権威と肩書を顕示して、「素人」や「低能」や「イナゴ」や「蛾」や「魚」や「ネトウヨ」等々を社会的ゴミとして排斥しようとし、説教を垂れるどころか、警察に訴えるとかのたまってるような、現実社会と何ら変わらない秩序の支配する世界、あるいは現実よりももっと権威的な世界になりつつあり、あるいはそのような秩序支配を導入しようとしている無意識のクズ共が跋扈する世界になりつつある。

フランツ・カフカも堕落・頽落したものである。

カフカのような人が今いたら、世界の何処かで、目立たないながら、もっと糞面白いことをやっている(書いている)のだろうと、期待したい、ということである。

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