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生きづらさ

夜中に起きていると、ふと自分という存在がなんなのかわからなくなることがある。


昼間は明るく振る舞っていても、それが本当の自分であるのかと言われたらそうではないと思う。誰かが自分のことを分かったような言い方をすると、違うのになと思ったりする。それって本当に嫌な奴みたいに聞こえるけど、嫌な奴みたいって思えるだけまだマシだと思って慰める。


思ったことや普段から思っていることを文字化して残しておかないと、全て消えてしまう気がして、こうして文字として書き出しているわけだが(今もこの画面に向かって直接書いている)、こういった作業をしている途中で全くもって何を考えているのかわからなくなることがたまにある。


家で一人でいる時、話をすることはないから、誰かと話すという現実世界での行為をうまく想像できな区なることがある。だけど急に電話がかかってきたりすると(電話というのは大体において急にかかってくるものだが)当然のように電話にでて、会話をすることができる。


先ほども書いたように他人に自分のことを分かったように話されるのが嫌になることがある。決して他人に自分のことを分かって欲しくないというわけではなく、むしろその逆であるが、どうしてもそれを「お前ってこういう奴だよな」とか、「いま〇〇って考えていただろ」とか、どこかその人の心理を掌握した上であくまでも自分はお前のよりも上なんだという意思表示をされているみたいでどうも心地よくない。


このような思想は非常に気持ちが悪い気がする。だけど、そのような思想を持ってしまった自分は変えられないし、誰しも他の人は持っていないと思うような思想はあると思う。そして、それは言葉にしてみて、それがシェアされると案外他人もそういう思考をしているということがあるかもしれない。


実につまらない文章だが、少しでも共感できることがあるかもしれない。他人と考えていることが同じということがあると、人は少し安堵すると思う。自分は変なんだと感じる心が少し軽減されるからだ。しかし、僕は自分が変であるとしてもそれは嫌なことではない。変というか、変わっているというか、他人とは異なるというか。誰しも他人とは異なるが、日本では大勢と異なり、漏れたものは排斥されてしまう。


誰しもが生きづらい世界であると同時に、誰しもが生きやすい世界を作ろうとしている。矛盾した世界が、この人類が生きる世界なのかもしれない。

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