見出し画像

三島由紀夫『詩を書く少年』『15歳詩集』

『詩を書く少年』は三島由紀夫の初期短編のひとつ。これを読もうと思ったきっかけは平野啓一郎の『本心』を読んで気になったから。

『本心』を読み、作中に引用されていた一文が気になり、三島由紀夫の初期短編集を引っ張り出してきた。

これほど透明な硝子もその切口は青いからには、君の澄んだ双の瞳も、幾多の恋を蔵すことができよう

『本心』P28,P325


実は今年、ある方かから「三島由紀夫選集」を全巻譲り受けた。ご家族の遺品であるようで処分するつもりだったようだ。それならば必要な人に譲りたいとのことで、ありがたくいただいた。全て初版であり、1巻は昭和32年に出版されたもの。三島印も押されている。
1巻には三島由紀夫の1940~46年の作品が収録されている。

三島由紀夫選集

1巻には『詩を書く少年』は収録されていないが、三島15歳の頃の詩がいくつか収録されている。『十五歳詩集』と『詩を書く少年』は結び付いている。

こちらに収録されている。

『詩を書く少年』は、三島自身が学習院時代の頃、15歳の少年が心に描いたであろう観念的なことが語られた作品である。
三島の解説によればこのように述べられている。

ここには、一人の批評家的な目を持った冷たい性格の少年が登場するが、この少年の自信は自分でも知らないところから生まれており、しかもそこにはじぶんではまだ蓋をあけたことのない地獄がのぞいているのだ。

解説より

主人公は学習院に通う15歳の少年。彼の詩は先輩たちの間で評判になっていた。しかし少年によれば詩は次から次へとすらすらと作ることができたということだ。

彼の詩は、必要に従って生まれるのではなかった。それらは全く自然に、こちらが拒んでも、詩のほうから彼の手を動かして、紙上に字を書かせるのだった

『花盛りの森・憂国』P108

あの肉体の変貌を見る限り、三島由紀夫は尋常じゃない努力の人だとも思うけれど、こういうのを見ると天才でもあったのかなぁとも思ったりする。
現に自分自身は天才だと思い込んでいたという記述もあった。ようするに、彼自身がどうこうせずとも、外部が彼の好むがままの形に合わせてくれるということだ。

先輩たちが褒めそやす少年の四行詩のひとつに、『本心』で引用されていた例の部分が出て来る。もう一度引用する。

これほど透明な硝子もその切口は青いからには、君の澄んだ双の瞳も、幾多の恋を蔵すことができよう

『花盛りの森・憂国』P109

ただ、先輩の評価とは対照的に少年の中では批判的だ。軽薄で、恥ずかしいものとしている。このように、自信過剰というわけでもなく、自分自身の詩を批判できる目もあったようだ。

少年はまったく楽に詩が書けたとのことだが、15歳ながら大人びた部分も持ち合わせており、詩というものは「悲しみ」「呪詛」「絶望」「孤独」、はたまた「得恋の喜び」「失恋の嘆き」「苦悩」「屈辱」、そんなものの只中から生まれるという事を頭で知っていた。
頭では知っていたということであり、実際にそういう体験をしていたわけではないようだ。ま、15歳ですし…。それは、勉強や読書などにより彼に備わっている知識、もしかしたら彼の家庭環境の影響もあるのだろうかとも思っている。


そんな少年はある日、親しくしていた年上の先輩の悲痛な悩みを聞くことになる。恋愛である。

『ここに恋に悩んでいる人がるんだ。僕ははじめて恋愛というものを目の前に見ている』

P114

恋に悩むからこそいい詩ができるだろうと、先輩を慰めるが、恋愛の渦中にいる先輩は詩どころじゃないという。
詩はそういう時に人を救うためにあるものだと思っていた少年。本当の詩人だったら、天才だったら、詩が救ってくれるものなはずなんだから。このとき、自分の知らない世界があることに少なからず衝撃を受けたように見える。そこで少年なりの理論が生まれる。

『この人は天才じゃないんだ。だって恋愛なんかするんだもの』

P116

先輩は相手の女性の美しさを語る。しかし少年が感じたのはまた別の部分だったようだ。

恋愛とか人生とかの認識のうちに必ず入って来る滑稽な夾雑物

P117

恋愛すると「滑稽な夾雑物」も美しいと思うものなのかもしれない。
なんとなく分かる。これまでの自分の基準が変わることがある。滑稽だと思っていたものに魅力を感じ始めたり、その逆もしかり。
でも、恋愛から覚めると、どうしてあんなこと思っていたんだろうと気づいて、自分自身に呆れる。自分らしくなくなる魔法。

『詩を書く少年』の主人公15歳の少年が当時どんな詩を書いていたのだろうと思って、選集のページをめくってみた。
いくつか引用しておこう。

熱帯

暗く廣い一隅のクッションたち。
それはしどけない女の寝姿に似ている
あらわな脈を打っている ああこの疲れよ
彼の女たちの上へちらちら雰ってくる夕日に
そんな日々、わたしは燦然たる熱帯を空想する。

1940.7

幸福の膽汁

きのうまで僕は幸福を追っていた
あやうくそれにとりすがり
僕は歓喜をにがしていた
今こそは幸福のうちにいるのだと
心は僕にいいきかせる。
追われないもの、おわないもの
幸福と僕とが停止する。
かなしい言葉をささやこうとし
しかも口はにぎやかな笑いとなり
愁嘆も絵空事にすぎなくなり
疑うことを知らなくなり
「他」をすべて贋とおもうように自分をする。
僕はあらゆる不幸を踏み
幸福をさえのりこえる。
僕のうちに
幸福の膽汁が充満して‥‥‥

ああいつかこころの発端に立っていることに涙する。

1940.10



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?