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短編小説 紡ぎ虫の糸はしー「蜘蛛の糸」異聞―

芥川龍之介「蜘蛛の糸」より

 ーーところがある時のことでございます。何気なく犍陀多(カンダタ:以下、カタカナ)が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした闇の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れてまいるではございませんか。
 カンダタはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。
 いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることもあるはずはございません。
 こう思いましたからカンダタは、さっそくその蜘蛛の糸を、両手でしっかりと掴みながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。

※本文は『蜘蛛の糸』芥川龍之介(角川ハルキ文庫)によりました。
ただし、一部の漢字を読みやすいものに変更し、主人公の名はカタカナ表記としました。

--考えたこと、ありますか?このときの蜘蛛は何を思ったのかと……

紡ぎ虫の糸はし

音声で楽しみたい方は、こちらからどうぞ。

 草木には雨滴が光り、濡れた土の匂いが漂う午後でした。灰色の雲は流れてしまい、弱い日差しと生ぬるい空気が、だれもを惰眠へと誘いました。それは、透き通る糸の上で揺れる彼女についても同じ事でした。
足先にかすかな震えを感じ、蜘蛛は目を覚ましました。その振動はいつまでたっても断続的に伝わってきて、獲物がもはやどこにもいけないほどに絡め取られてしまったことを教えてくれました。そこで彼女はゆっくりと、遅い昼食のもとへ向かうことにしたのでした。
 そこにいたのは、頭の大きなギンヤンマでした。

「なあ、助けてくれよ。」

 それは震える声で、たどたどしく、しかし早口で言いました。

「さっきまるまるとした蝶を見たんだ。日が暮れる前にここを通るだろう。なあ、そいつに……」

 蜘蛛は最後まで聞かずに牙を突き立てました。とても不愉快になったのです。瞬間、ギンヤンマの首は跳ね上がり、ギっとかすれたような音がしました。目が一層大きくなって、複眼全てが自分へと注がれているような気がしました。蜘蛛はスピーディーに食事をとらなかったことを悔やみました。陽気が脚と判断を鈍らせたんだわ。だから餌に言葉を与えてしまったんだわ。そして私の昼食が醜くまずいものになってしまったんだわ。こうなると自分を取り巻く全ての穏やかさが苦々しく感じられ、蜘蛛はかぶりをふりました。
 しばらくして、重そうな体をぐらつかせながら、ちょうちょがやってきました。かわいそうに。蜘蛛はそう思いました。醜いとんぼに売られたこと、それでいて蜘蛛の食指にふれないこと、なにもかも知らないこと。ちょうちょはかわいそうで、かわいそうで、蜘蛛はさびしくなりました。
 それからというもの、蜘蛛は、餌の言葉を聞かないことにしました。何度も、寝て、起きて、食べて、寝て、起きて、食べて。惰性のようなその繰り返しの中に、とんぼの記憶は埋没していきました。

 ある朝、蜘蛛は自分が動けなくなっていることに気づきました。群青色の空を仰ぎ見て、そこへ行く日が来たのだと感じ取った蜘蛛は、目に注いでいた意識をそっと解きました。彼女の世界が仄暗くなりました。まぶたをもたない蜘蛛ですが、眠るときにはこうして外界と自分とを遮断していたのでした。その旅立ちは、眠りのように訪れたのでした。暖かくも、寒くもありませんでした。おなかも減ってはいませんでしたが、喉だけはひどく渇いていました。そのままどのくらいがたったのでしょう。静かにこの時を迎えられたことに満足しながら、彼女は、最後に大きく息をつきました。
 なまぬるい時間が過ぎていきました。体の外も、中も、靄に覆われたかのようでした。蜘蛛は、何度か自分のまわりへとゆっくり目を向け、変化がないことを確認しては、また、ゆっくりと仄暗い世界に意識を落としました。そんな時間が重なって、沈殿してゆきました。蜘蛛は時間の膜に覆われる心地よさを感じていました。なにもかもがぼんやりとして、誰も彼女を不快にすることはありませんでした。

「おまえに報恩のときを授けましょう」

 その声は唐突でした。そして、答える間もなく、蜘蛛は明るすぎる世界へと連れていかれました。顔をゆがめて目を使おうとするや、飛び込んだのは蓮の緑でした。玉のように真っしろな花と金色の蕊、水面に反射する光。そして緩やかに流れるウツクシイ音。色も音も鮮烈に突き刺さり、蜘蛛はめまいを覚えました。

「おまえ、カンダタという男を知っていますね」

目の前にいる穏やかな笑みを浮かべた顔が“お釈迦さま”であると、どうしてか蜘蛛は知っていました。でも、カンダタがなんであるかは知らないような気がして、ぼおっとした頭を振りました。

「そうですか」

お釈迦さまは少しだけ眉をひそめて言いました。

「いえ、忘れてはいないはずです。おまえは、彼の慈悲によって、生きていたのですから」

お釈迦さまはおっしゃいました。蜘蛛とカンダタが、以前出会っていたこと。男は大悪党でありながら、気まぐれに蜘蛛を助けたこと。そして、彼が今、血の池で苦しんでいること。聞きながら、蜘蛛は、そんなこともあったように思いました。それは、遠く、靄のかかった記憶でした。

「私は、カンダタを信じたいと思います。」

お釈迦さまの声で、蜘蛛は我にかえりました。

「優しい彼は、ここに引き上げるに値するかもしれません。彼を連れてきてくれますね」

迷いのない声が冷たく響き、蓮の葉がざわりと揺れました。

「でもお釈迦さま」

蜘蛛は、口をついて出た言葉に自分ながら驚いていました。どう継げばいいのか、考えても考えても、頭の中はぐらぐらとゆれるばかりで、

「もし、カンダタが救うに値しないと気づいたらどうなさいますか?」

言ってから、わけのわからない不安にかられて、蜘蛛はあえぐようにお釈迦様の顔を仰ぎ見ました。

「なんと恐ろしいことを言うのです」

細い目が少し見開かれ、深い色をたたえた瞳がまっすぐ彼女をとらえました。

「あの男の優しさに触れたのは、ただ、おまえだけなのですよ。おまえが信じてやらなければ、あの男はどうなります、孤独よりも恐ろしいものはないのですから」

 地獄というところと、孤独というものと、どちらが恐ろしいのかしら、一瞬だけ彼女はそう考えました。恐ろしいことに触れる強さは持っていないはずでした。けれどもひとたび“宣告”を受けた蜘蛛には、選ぶと言うことなど思いもよりませんでした。あの深い瞳の色にあらがうことは、孤独よりも地獄よりも恐ろしいことだったのです。

 もう蜘蛛はなにも言いませんでした。彼女は、お釈迦さまのほっそりした指に、のろのろと銀の糸をかけました。そうして、一歩一歩と虚空へ踏み出しました。
 
 慈悲とはどういうことでしょう。血の臭いが鼻をかすめるようになった頃、蜘蛛は少しだけそんなことを思いました。自分に言葉をかけたお釈迦さまは慈悲に満ちていらっしゃいました。それは自分があの男を引き上げてくると信じているからでしょう。だからあんなにも美しい笑顔で、自分をこの血の池へとお送りになったのでしょう。

 では……。ぼんやりと蜘蛛は考えました。底知れぬ闇の奥から、溜息のような呻き声が聞こえてきます。罪なのでしょうか。信じないことは、許しがたい罪なのでしょうか。心に描いたお釈迦さまの笑顔にいくたびか問いかけをしてから、せんなきことだと思い返した蜘蛛は、深い息をつきました。呻き声のした方に目を落とし、そしてそのまま沈み続けました。

 闇が揺らいだように見えました。それから、少しずつ白い点が見え始めました。白い点は、近づくにつれ、歪んでうごめき始めました。それは、亡者の顔でした。血に濡れた髪を貼り付けたそれらは、口々に言います。

「ただ、楽になりたくて……」「畜生、あいつ、知ってやがったのに」「あのだらしない隣の女……」「はめられただけなんだ、なあ」「あたしだけが、どうして」

 それは哀しく、醜い声でした。恐ろしくて、恐ろしくて、胃の腑が重く、喉へとこみあげてくるように感じました。重い腹のせいで、血の池が一層迫ったようでした。恐ろしさに、沈められるようでした。

 向かう先は、定められていました。真下に見えるいびつな顔。あれが、カンダタ、私が生の世界にいることを少しだけ許し、長くせしめた男。覚えているような気も、初めて見たような気もする、やせこけた顔でした。蜘蛛はその顔を認めると、見ることをやめました。もう見るべきものは何もありませんでした。

 突然がくりと蜘蛛の体が揺れました。驚いて目に意識を凝らすと、不自然に血の池が迫っていました。つかんだ。そして、上へとするする引き上げられるのを感じました。お釈迦さまはさぞお喜びでしょう。カンダタの顔を見上げます。彼は息をつめていました。汗が血とまじりあって、髭の先から滴りました。赤い眼は、天に向けられていました。

「これは、俺の糸だ」

 不意に男が下を向いて叫んだので、蜘蛛は心臓が縮みあがりました。その声が、自分に向けられていると思ったのです。孤独が終わった気がしたのです。

「お前たち、ええい、触るな。俺の糸だ、俺だけの、俺を救う……」

 一瞬、上に糸を引っ張られたような気がしました。そして次の瞬間、ふつりと震えを感じました。ああ、おちる。そう思いながら男の顔に目を向けました。大きく歪んだその顔は、目も、口も、鼻も、刹那のうちにふくれあがって、いまにも顔全体が穴に埋め尽くされるかのように思われました。蜘蛛はギンヤンマの複眼を思い出しました。醜い、と思いました。しかし、目を背けることも、牙を突き立てることも出来ませんでした。だから、吸い寄せられるように、その複眼を見ていました。私を見ているのかしら。蜘蛛はつかの間そう思いましたが、すぐに自分を通り過ぎたもっと遠くにその目が向けられていることに気付きました。あまりの寂しさに、腹がひゅうっと冷たくなりました。

 カンダタは、醜く、かわいそうでした。それでも蜘蛛は、カンダタをいつまでも見ていました。目が、離せなかったのです。もしかしたら、これが慈悲というものかしら、蜘蛛は思いました。上ではお釈迦さまが、さぞかし悲しい瞳をしていることでしょう。
 私は死ねるのかしら、終わるのかしら。死ねないのかしら、永遠なのかしら。一緒なのかしら、ひとりなのかしら。孤独ほど恐ろしいものはないのですから。孤独ほど恐ろしいものはないのですよ。いっそ何も感じなければいい。一瞬のうちにいくつもの考えが生まれては、消えていきました。とぷり。感触が生きていた皮肉に顔をゆがめた蜘蛛はそのまま沈んでいきました。柔らかく、生ぬるい血の池は、蜘蛛の体温を奪っていくようでした。冷たい腹を抱えて、蜘蛛は沈んでいきました。

作品に寄せて

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 もし、「蜘蛛の糸」の蜘蛛だったら、と、ふと考えたときから思いが広がっていきました。信じるって難しいんです。大人になればなるほど。もし、蜘蛛がカンダタのことを信じられないまま、血の池へと降りざるを得なかったとしたら……底知れぬ闇の中、糸を伸ばしながら地獄を目指す蜘蛛は、どれだけの孤独と恐怖と哀しみを抱いていたことでしょう。

糸はしの蜘蛛。その目には何が映り、そして、何を思うのか。

 そんなことを思って書きました。いわゆるオマージュ作品ですので、原典から引いた表現も散りばめています。よろしければ、これを機に、「蜘蛛の糸」、一緒に再読しませんか?

朗読チャンネル「千歳の聲」

4月から定期更新を目標に細々とnoteとYouTubeを始めました。
不慣れながらなんとか続いていて、ほっとしています。

今さらですが、YouTubeのチャンネル名も決めました。
「千歳の聲(ちとせのこゑ)」

天下太平を願う千秋楽、萬歳楽を唱える声の意から、
転じて、千年の長寿や世の平和を祈る声。

字義に、いにしえ人が語り継いだものを、
今の世に声で伝えたいという思いも重ねて……

アマチュアですのでお聞き苦しいところもあろうかと思いますが、
よろしければこちらもチェックしていただけると嬉しいです。

生徒から「先生の朗読は眠くなる」と言われていた
高校国語教員の私ですが、ならば、と始めたYouTube。
お休み前などにいかがでしょうか……?

……今にして思えば、朗読が眠くなるのではなく、
授業が未熟で生徒を飽きさせていたのではないかと。
それを「つまらない」ではなく、「眠くなる」と言ってくれたのは
生徒の優しさだったのかもしれません。

https://www.youtube.com/@chitosenokoe/featured

学校コラム「おしゃべりな出席簿」

note、YouTubeともに、
木曜日には地域の伝承に取材した創作(小説や怪談やエッセイなど)を、
月曜日には学校の日常を描いた明るいコラムをお届けします。

今日は、ひっそりとしたお話をお届けしました。
実は、こういうことをひとりでぼんやり考える時間が好きだったりします。
月曜日には高校の日常をなぞりながら投稿しています。
このひとときも、私の生活の中でとても大切な時間です。

学校コラムをまとめた一冊、
『おしゃべりな出席簿』もよろしくお願いいたします。

https://amzn.asia/d/cShbb1W


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