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水戸で考えたこと

水戸の話の続き。
水戸駅前に、水戸黄門(水戸藩第2代藩主・徳川光圀 1628-1701)様ご一行の像が立っている。
左が助さん、右が格さん。
傍らに書かれている説明によれば、諸国漫遊記の類が創作されたのは明治以降のことで、助さんも格さんも本当は学者なのだそうだ(「大日本史」の編纂に尽力)。

「大日本史」は途方もなく野心的な事業であった。
徳川光圀が明暦3年(1657)に着手して以来、明治39年(1906)に全402巻が完成するまで、約250年もかかっている。
国立国会図書館には、戦前出版されたダイジェスト版の訳書がデジタル版で閲覧できるようになっているので、少し読んでみた。

神武天皇の御代から南北朝の統一に至るまで、天皇中心に記述されるこの巨大な歴史書は、上記の訳書で読む限り、神話(フィクション)と科学(史実)との壮大な融合であるようだ。
「大日本史」は幕末の尊王思想に大きな影響を与えたのみならず、戦前の皇国史観のバックボーンともなっていた。

歴史を記述するということは、それを読む人々の精神に巨大な影響を与える。自分たちのご先祖様はどんな人たちだったのか、この国はどんな国であり、自分はその一人として誇りを持つべきだ、といった具合に、読者のアイデンティティを規定しようとする力を持つ。
それは現実の社会をたちまち動かす、恐るべき政治的行為でもある。

ムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」にも、修道院の僧房で神父が真実の歴史を後世に残すために、年代記を執筆している場面が出てくる。その内容を知った若い僧侶は、ある野望のもとに行動を開始する。
為政者が何をおこなったか、社会でどんな出来事が起こっていたのか、それを後世に伝える――歴史を記述することは、あっという間に人々を行動へと駆り立てるほどの影響力を持っているのだ。

私たちが歴史を知ろうとする際に大切なのは、一つの物語だけに安住せず、常に複眼的な視点をもって、批判精神を忘れないことである。

そういえば先月、月刊「東京人」で日本の作曲家特集が組まれていたが、そこでも日本のクラシック音楽史を作曲中心に記述しようとする野心的な記事があった。ハイカルチャー/ポップカルチャーという視点の斬新さに感心しつつも、そこでは戦後の前衛・実験音楽の流れがほぼ捨象されていたことも、実は気になっている。「別の視点」は常に意識されなければならない。

水戸の話に戻る。

水戸藩には文化・学問を大切にする気風があるということは、第7代藩主・徳川斉昭(1800-60)の開設した藩校・弘道館の存在に象徴されるが、偕楽園の中に建てられた好文亭の中の造りにも反映されている。

たとえば東広縁の間という風通しの良い広い部屋は、80歳以上の家臣、90歳以上の庶民を招いて、歌や詩を作って詠んだりして楽しむ場所だった。
お付きの者や女中の控え室も美しく、他の部屋との差別があまりない。藩主の間は狭く質素で、文人・墨客・庶民らと親近に語り合うための場所として使われていた。

つまり徳川斉昭は、身分の別なく、教養人として多くの人と語り合い、美しい庭園で詩歌を楽しむ人であり、学問・文化・芸術のサロンを主宰する大パトロンでもあったというわけだ。

この好文亭の雰囲気が私はとても気に入った。
斉昭が、学芸を通じて、誰とでも膝を交えて語らおうとしたことが、ここの建築の構造や間取り、アットホームな居心地の良さから伝わってきたからだ。
次はぜひ弘道館をゆっくり訪ねてみたい。



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