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稀に見るエキサイティングなトークイベントだったかも(3/12下北沢B&B、吉原真里さんと私)

トーク中、隣で吉原真里さんが私の本「そこにはいつも、音楽と言葉があった」(音楽之友社)を開いているときに、付箋とマーカーの跡が超丁寧にびっしりと付いていることに感激した。
ああ、こんなに熟読してくださっているんだ。

自分も2か月以上前に吉原さんの「親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語」(アルテスパブリッシング)を日経新聞の書評で書くために熟読していたけれど、今回再読して、吉原さんに向けてのかなり鋭い質問を準備しておいた。

だから、下北沢B&Bでのトークイベントは、和やかな雰囲気だけれど、内容的には、お互いノーガードで撃ち合うボクシングのような、丁々発止たる面白いやりとりになった。

私が用意しておいた一番強い質問というか感想は、吉原さんが今回の著書で、取材対象の人生の中でも一番プライヴェートで繊細な事柄に対して、相当踏み込んだ記述をしているが、それは一歩間違えば彼らに対する「研究」という名の暴力になりかねない、それくらいのハラハラ感があったということ。もちろん最後には見事にそれが美しく解決されて、芸術的なまでの読み物になっているのだけれど。

それ以外に私が吉原さんの本について触れたかったのは、いま失われがちな「手紙を書く/読む」という行為の美しさ、その前提となっている「待ち焦がれる」ということの尊さ。バーンスタインという人が、ただ音楽家なのではなく、彼の発する言葉も行動も何もかも含めて、全人格的な芸術家であり、火柱のような存在だったということ。
あと、これは自分の本の内容とも通じるのだけれど、どんな名評論家であろうと、どんなにアーティストと密接に個人的な結びつきを得た者であろうとも、特権的な聴衆というものは存在しないということ。音楽家とは、それを創造する者だけのことを言うのではなく、それを受けとめるセンサーを持った聴き手もまた音楽家であり、その芸術の一端を担うということ。

吉原さんからも素敵な感想と容赦ない突っ込みがたくさんあって、それがまた心地よいものだった。たとえば、フィリップ・グラスが私の取材に答えて「音楽とは場所である」という意味のことを語っているが、それはどういう意味だと思うか。私は音楽ジャーナリスト・評論家と名乗っているけれど、そもそもジャーナリズムとはどういうことで、研究との違いとは何か。ラトルやウィーン・フィルについての文章や、高校時代のエピソードについて書いた2本のエッセイについても、特に取り上げてくださったのもうれしかった。

明晰な人とお話しできるのは本当に楽しい。政治と文化芸術の関係、LGBTの問題、アジアとクラシック音楽のことなど、もっとうかがってみたいこともたくさんあった。バーンスタインのマーラーの9番のことや最後の来日公演、PMFについてももっと話したかった。吉原さんとは、きっとまた機会もあることだろう。

本の著者どうしが、お互いの本を熟読した上で、突っ込みあうトークイベントが、こんなにも面白くできるものだったとは。

※追記
下北沢B&Bでの3/12の吉原真里さんとのトーク、ご好評に応えてアーカイブ動画視聴ができるようになりました。当日ご覧になれなかった方はぜひ。
https://bbarchive230312a.peatix.com/

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