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偏向や偏見が、「ノンフィクション作品」を読ませたんだ!!


私は最近ノンフィクション作品をすごく読んでいる。国外から国内の作品まで幅広く読んでいた。

特にその中でも、日本のかつての悲惨な事件は私にとって、読み漁る毎日を送らせるキッカケを与えてくれる。

最近読んだ本を並べると、かの尼崎事件を鋭い洞察力で追い続けた小野一光さんの「家族喰い」や川崎市で起きた中1男児殺人事件を描いた石井光太さんの作品「43回の殺意」など、他にもあげればキリがない(その中でも清水潔さんの作品は読んでほしい)。

読むのが辛くなるほどの作品でも私は向き合い続けた。毎晩ベッドの中で読んでいると夢に出てくることもある。あまりにもひどい情景が浮かんで、投げ出したくもなった。それでも、読み続けるのは2つの明確な理由がある。それは自ら選んだことと自然と読ませたことだ。


自ら選んだこと

私はこのようなノンフィクション作品を読むのは、自身の生きている環境がいかにありがたいかという「感謝」を無意識化に落とし込むためだ。社会人になって、日々感謝することが増えた。もちろんそれは家族のことや友人、そして、一番は大切な恋人のことだ。一方で忙殺される日々もある。仕事の意義とは?そんな問いを深く考えることもある。

感謝を忘れる日々がたくさんある中、ノンフィクション作品を読んでいると私の日々に「感謝」し続けざる得ないほどの衝撃を与えるのだ。この素晴らしい感情を持つために、作品に向き合い続けている。

ただ、それは読み続けて考えたことであり、最初の一冊目で感じることではなかった。

興味を意図的に感じず、一冊目を読んだ理由は行動経済学の「認知バイアス」という概念を覚えたからだ。


自然と読ませたこと

認知バイアスはWikipediaによると、「非常に基本的な統計学的な誤り、社会的帰属の誤り、記憶の誤り(虚偽記憶)など人間が犯しやすい問題」である。

例えば、自分が良いと思った行動でも一般的に良くなかった(マナーや法律を学んでいれば回避できたかもしれない)や、値引きしてあるものはお買い得なものだ(何でもかんでもそうではないことは少し考えればわかる)などのものが挙げられる。

この辺は、勉強すればいくらでも出てくる。

認知バイアスを学んでから、普段から「死ぬ」なんて考えてなかった自分さえもそれは認知の歪みかもしれない。自分が死ぬ確率は人間が突発的に死ぬ原因を全てあげて、その確率を元に計算をすれば出てくる。

そんなことを分かっているのに、なぜノンフィクション作品で事件を読むのか。私は確率の外れ値がそこに存在すると感じる。

通常では起こり得ないことが起こる。それはどんだけ勉強しても予測できない。だから、人は明日にでも死ぬかもしれないのだ。私の読むノンフィクション作品はそんな外れ値である世界が現実で起こることを教えてくれる。

認知バイアスに陥らずに生活できる状態があるのかと疑問に感じていたら、自然と読ませたのだ。

このnoteはここまでだか、以下では興味深い作品を紹介する。ぜひ読んでほしい。

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①新版 家族喰い 尼崎連続変死事件の真相 (文春文庫)

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②43回の殺意―川崎中1男子生徒殺害事件の深層―(新潮文庫)

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③消された一家―北九州・連続監禁殺人事件―(新潮文庫)

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④桶川ストーカー殺人事件―遺言―(新潮文庫)


ここでサポートいただいたものは、全て私の母の病気への還元に使わせてただいています。