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発信する勇気


末吉宏臣さんの「発信する勇気」を読んだ。



とてもすてきな本だと思ったし、こんな文章が書ける人というのはとても正常で健全な感性を持っている人だと思った。ある意味とても安心できる「普通」の感性なのだ。


誰でもきっと通ってきたよね、と思えるようなありふれた感情を、ぜんぜんかっこつけずに書いているところが、内容そのものよりも著者の末吉さんの人柄を表していて、発信って知識じゃなくて、ほんとうにその人自身なんだよな、と思わせてくれる。


フォロワーが何万人もいる発信者でも、同じ感情を感じたり、同じことで悩んだり、みんな同じなんだな、と思うことが増えた。そういう等身大のかっこつけない自己表現こそが、誰かの背中を押すのかもしれない。


それにしても、自分もふくめて日本人というのはいったいどうして、全員が全員「自分なんかたいしたことがない」とか、「自分なんて何の価値もないつまらない人間だ」とか言って、周りの人と比べてばかりいるのだろう。


その人はその人しかいないのに。誰でもない自分になるために、誰かを羨む必要があるっていうんだろうか。


そんなことを10000回くらい思ってる。


わたしもたんなるそんな日本人で、画一的な社会に押し込まれた会社員でしかないので、ただただ勇気を出したくて、背中を押してくれる人の発言を拾い集めて、みたり聞いたり読んでいる。


いってみればその行動自体がもう、「勇気を出したい」と思っていることで、あとは行動にうつすだけなのだからやることは決まっている。そんなことはわかっているんだけどその勇気がまだ出ない。いや、もうすぐ出るんだ。きっと。



この本の中に、「サイレント読者」という表現があっておもしろいなと思った。


その名前のとおり、その発信者のことが好きでずっと追いかけていたり、おおいに影響を受けたり勝手に励まされたりしているけど、いっさいリアクションしない読者のことである。


そのサイレント読者は、表に見えていてわかりやすい反応を返してくれる、いわゆるファンみたいな読者よりも、ずっとずっと潜在的にはたくさん存在するらしい。


それって少し、勇気が出てこないだろうか。



そういえばnoteも知らない間にページビューが増えていたり、こんなたわいもない記事がこんなに読まれているんだとたまに驚くことがある。(スキの数と比例しなくても)


自分だって、じつは人生が変わるくらい影響を受けている人だったとしても、直接お礼を言ったり、なにかを伝えようと思ったことはそうそうない。


かっこ悪いから絶対に知られたくないけど、ずっと会っていない友達のインスタをそうっと見に行ったり、退職した会社のHPに行って仲の良かった人のスタッフブログをこっそり読んで、「まだがんばってるんだな」とか思ったり。そんなことすら思い当たることがある。それだって、なんのリアクションもしないけど「一方的に見ている」だけなのだ。



ネット上にある情報には、一方的にだれもがいつでもアクセスすることができて、発信しているだけで別に意図しなくても、知らないところで誰かを勇気づけたり、背中を押しているかもしれないんだな。


それってなんか、すごいことなのかもしれないと思った。


究極、好きなことしてればいいだけってことにならないだろうか。


だって何やってたとしても、発信してる方からしたら知る由もなくても、勝手に背中を押されてくれてる人がいるんだもの。


このサイレント読者の話は、とても勇気がわいてくる概念でした。


同時に、これからは影響を受けた人や、感謝を伝えたい人には、サイレントじゃなくてちゃんと伝えたいな、とも思った。


そのたった少しの反応が、発信する人の勇気にもなって、双方向にエネルギーが生まれるかもしれないから。

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