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早起きができない愚痴/努力量は評価に直結しない

こんにちは。今日は「最近の睡眠」の愚痴と「評価」について。

テーマ1:睡眠時間の制御ができないんじゃ

突然ですが、私はこの冬に入って早起きができなくなってしまいました。季節の変わり目故か、あるいは気温の低さかははっきりしませんが、どうにも朝が弱くてですね……

しかもこれ、単に早寝で睡眠時間を長くするだけでは全く解決しない問題のようです。単純に朝起きる時間帯が遅いところで固定されているという感じです。

もちろん朝動けない分は夜に動けるようにすれば良い、という話もありますが、療養中の身としてはそっちのルートは回避したいと思ってまして。悩ましいところです。

世間で流行りのヤクルト1000を入れてみるのも検討の余地ありではありますが、それはそれで常用するとお金かかるよなぁ、ということで踏ん切りつかない状態だったりします。

テーマ2:自己評価の精度

さて、これ以上グチグチ言っててもあれなので、話題を変えましょう。とりあえず今日のnoteの初速は稼いで次のネタを思いついたのでOKです。

評価は他人によって与えられるもの、というイメージが私の中にはあります。

もちろん自己評価という単語もあるので絶対ではありませんが、自己評価には様々な思い込みが作用してきます。その成果物・作品を作るためにかけた努力や時間の量などがその代表格です。

もちろん他者の評価に思い込みによる影響がまったくないとは言いませんが、自己評価よりは客観的な評価が行われるはずです。

多く努力したものが評価されるわけではない

例えば、3日かけて練り上げたアイデアと思いついて数分で書き出したアイデアとどちらがより良いアイデアかを考えるとき、この情報だけでは評価ができません。

なぜなら、この情報は先程例示した「努力量・かけた時間」のみを示していて、その内容については一切触れていないからです。

つまり「その時の努力量」は客観的な内容の良し悪しの評価と直結するものではない、ということですね。

この「努力量・時間」に引っ張られなければ、その分自己評価が他者からの評価に近づく、と考えることができます。これはとても大きなメリットではないでしょうか。

多くの場合、自分の成果物を使い・役立てるのは他人です。その他人の評価に自己評価の感覚が近づけば、より他人に役立つことを意識して、役に立つ成果物が作られるはずです。

影の努力は成果物にはカウントされない

ここまでの話は「努力が無意味である」と断じるものでは全くありません。なぜなら、努力をしなければ他者の評価基準がわかってもそこに寄せきれないからです。

普段から影の努力をしておくことで、自分の手札を増やし、実力が養い、いざ他者の評価基準が判明したときに即座にそれにあわせていけるようになることが大事なのです。

努力はとても大事です。長いこと努力を続けられることは尊いです。本番のつもりで練習を行うことは有益です。ただし、それらは他者に見えないところで行われる、準備段階の行動です。

成果を生み出すのはあくまで一回限りの「本番」で、その評価者は「成果物のみを見る他者」です。

努力は努力・成果は成果と区別しておくと、努力量だけに溺れず・成果だけを求めずな思考がつくられるのではないかと思う今日このごろでした。

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