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ペアリング【短編小説】

(注:若干の残酷・不快描写があります。苦手な方はご注意ください。)
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 僕としたことが、油断した。前後不覚の酔っ払いがまともな反撃に出るとは。

 飛んできた拳は石のように固かった。長年愛用しているメタルフレームの眼鏡がひゅうんと弧を描き、僕が倒れ込むと同時に数歩先でカシャンと鳴る。

 惰性のまま伏せた顔面のど真ん中に、不吉な熱を感じた。反射的にカーディガンの袖をあてがう。

 街灯の仄白い光の下、目に飛び込む鮮やかな赤。

 慌てる間もないうちに、その主体が意思を持った生き物のごとく後を追い、どろりと流れ出す。冷たいコンクリートの上で握り締めた手に、一滴。また一滴。それを捉える視界が一瞬かすんだ。

 己の命の証がこんな風にほとばしるのを目撃するのは、一体いつ以来だろう。僕もまだ人の子なんだな、と、ニヒルな笑みがこぼれる。善良な市民としての意識は、はるか遠くへ売り渡したつもりだったのに。

「魂を売る」という言葉がある。でも、僕は逆だ。常識とか世間体とか、しがらみとか、そういったものすべてを削ぎ落とし、最後に残った魂の核だけを抱き締めて、今ここにいる。正義は勝たなければならない。あいつがこんな男の言いなりになってたまるか。

 温かい雫は徐々に勢いを弱めながら、僕の薬指の指輪をワインレッドに染めていた。

 血の誓い、か……悪くないな。

 思いがけぬ高揚に口角を上げ、立ち上がろうとしてふらつき、膝を付く。目玉の裏側が焼けるようにひりつき、脳髄をねっとりとかき回されるような、未知の感覚。


 僕を殴ったはずみで派手に転んだ相手は、着衣を整えたところらしい。口汚く僕をののしりながら千鳥足なりに距離を詰めてきた。趣味の悪いツートンカラーの革靴。その片方が荒っぽく振り上げられたかと思うと、脇腹に鋭い衝撃。思わずうめき、僕はかばうように体を丸めた。

 奴の姿を仰ぎ見た瞬間、重力に抗えず本能的に嚥下していた。その生ぬるさと鉄臭さとで、湧き上がる吐き気に顔をしかめる。なるほど、ちょっとした切り傷を舐めるのとはわけが違う。

 男は、醜い顔ともつれる舌で無駄にしゃべり続けた。僕が何者であるかはすぐに察したらしい。そう来なくっちゃ。通り魔か何かの無作為な狼藉だとでも勘違いされたまま死なれたんじゃ、中途半端もいいところだ。

 あいつの正式なつがいである僕が、まさか目の前に現れるとは思ってもみなかったろう。僕がお前から彼女を奪還する。その構図をしかと自覚させてから地獄に突き落とさなければ。

 こいつの口から「俺たち」という文句が出るたび、虫唾が走った。馬鹿にするな。あいつはお前のことなど愛しちゃいない。これ以上彼女を惑わすことは僕が許さない。僕らは、きっとやり直せる。左手の指輪が妖しくぬらついた。


 はたから見れば、ヒーロー気取りにすらなっていないだろう。こんな無様な姿をあいつが目にしたら何と言うか。いや、僕とこいつの間に起きたことなんて、彼女は知らなくていいんだ。そっと一言だけ告げよう。君はもう自由だよ、と。

 こいつと毎日のように怒鳴り合い、友人やSNSに悲痛な叫びをぶちまける彼女を、これ以上黙って見ていられるはずがなかった。

 こいつは毎週火曜か水曜の晩に別の女を抱き、それが叶わないと独り深酒する習慣がある。店を追い出された後は決まって、人気のない路地で鼻歌交じりにション便を垂れ流す。そのやけっぱちなひとときを狙いすまし、こいつの暑苦しく太った首に紐をかける。迷いは微塵もなかった。

 だが、真っ最中のション便をまき散らしながら奴が歯向かってくるとは想定外だった。こいつの尿の汚らわしさととんでもない悪臭にひるんでしまったのは誠に遺憾だ。

 まあいい。万一に備えて、第二のプランを用意してきた甲斐があったというものだ。

 右目の下一帯がじんじんと脈打つように非常事態を訴える。殴りかかってきたこと自体が唐突だったが、その拳が僕の右側にヒットしたことにも大いに面食らった。奴が左手で箸を持つことはとっくにわかっていたのに……。

 昔の女から事の最中に平手を見舞われたときは、左頬で受けたのを鮮明に憶えている。君は……どうだろう。あのときの女みたいに僕をひっぱたくなんてことはしないよね。するはずがないよ、絶対に。

 僕らこそ、運命のつがい。結ばれることが定められた二人なのだから。


 何も知らない君は、今日もいつものスーパーに寄っただろう。右奥の惣菜コーナーで、値引きのラベルが貼られた品を、一つか二つ買っただろう。今夜は、そうだな……アジの南蛮漬けか、ゴボウの天ぷらか。あれ、待てよ。そろそろ近いはずだから、貧血対策でホウレンソウのおひたしかな。

 そういえば、鎮痛薬もそろそろなくなる頃じゃないか? イブクイック、昨日のうちに郵便受けに入れてあげた方がよかっただろうか。でも、どうせまた捨てられちゃうかも……。

 いや。

 そんなことはない。僕はそう気付き、ほくそ笑む。

 直接、渡してあげればいいんだ。これからはコソコソする必要なんかないんだ。こいつさえいなくなれば。

 この男の支配から解放される彼女を思った。美しく、清らかで、ときに神々しく、ときに愛らしく、僕の胸を震わせてやまない魅惑に満ちた君を。僕の腕の中でようやく人心地つき、安らかな笑みを浮かべるであろう君を。


 不意に、胸ぐらをつかまれた。荒々しく振り回されそうになるものの、相手はいいかげん泥酔している。この大立ち回りでますます酔いが回ったのかもしれない。僕を引っ張った拍子に後ろへ倒れた。頭を打たせないよう、僕は奴の手をつかんで引き留め、馬乗りになる。ここまで来て、勝手に事故って死なれたんじゃたまらない。

 恐怖など元よりありはしない。痛覚は昂りに気圧されて麻痺していた。奴のだらしなく伸びた前髪をひっつかみ、後頭部を軽く地面に打ち付けてやる。かはっ、と情けない声を漏らし、目を白黒させる憐れな男。いい気味だ。奴の喉を力一杯押さえると、その両腕が空しく宙を掻いた。残念ながら僕の方がリーチは長い。

 右手でポケットを探ると、丸みを帯びた小箱に手が触れた。君へのプレゼント。中身は僕のとおそろいで、僕らの名前が刻まれている。やっと渡せるんだ。今夜やっと……。

 僕は大切な小箱から手を離し、隣に忍ばせた折りたたみ式のアウトドアナイフの感触を確かめた。

 初めから二人きりの世界に生まれることができたら、ああ、どんなに幸福だったろうね。

 こいつを片付けて、会いに行くよ……。

 友達の投稿に今日も「いいね」を振る舞いながら、ソファーで寝落ちしかけてる君に。


                        【了】



※この作品はフィクションです。

※"イカ変態同好会" 参加作品です。2つのお題、「鼻血が出た」と「彼 / 彼女のことが大好きだ」を掛け合わせてみました。

※ヘッダー画像は、あさぎ かな様(@Chocolat02_1234)より頂戴しました。






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