番外編:常識は常に変化する!?歴史が物語る真実

 歴史は多くのヒントを現代の私たちに与えてくれます。人類の歴史は戦争の歴史という声もあるほど、絶えず戦争は続いてきました。そして、そこから異なる文化や思想、言語、宗教同士が融合し新しいものが生まれてきました。

 

 宗教で例えるなら、キリスト教はユダヤ教の一派から派生し、そこから17世紀ぐらいまではカトリック教会という宗派のキリスト教が主流でした。そこで新たに発生したのがプロテスタント。語源はprotest「抵抗する」という意味の言葉なのですが、実は元祖キリスト教であるカトリック教会に抵抗して多大な犠牲を払って独立分離したことから来ています。

 

 ちなみにキリスト教の象徴にもなっているイエスは、十字架にかけられて殺されたとされていますよね。殺したのは当時ヨーロッパを支配していたローマ兵ですが、なんとなんと、ローマ兵にイエスを引き渡したのはユダヤ教の聖職者だったそうです(当時、ユダヤ教団では、キリスト派は異端とされていました)

 

 宗教は古今東西で国の思想統治に大いに利用されてきた過去がありますから、正しいとされている考え方が年月を重ねるごとにコロコロ置き換わっているということになります。そして、「神」を主体とする宗教による統治も18世紀頃から陰りが現れます。科学技術の発展です。今、地球が宇宙の中心だと信じている人はいないですよね。

 

 そして大きく時代を先送りして現代社会。SNSの大普及。共通の趣味を持った人同士がグローバルで繋がれるようになりました。実際、私もインスタグラムでミニカーの写真をアップしたら、クリミア地方のロストフという町に住むロシア人の方から日本の車の魅力について熱いメッセージを頂き連絡を取り合ったことがあります。

 

 さらに最近自分にインパクトがあったニュースは、2020年6月から施行されたパワハラ防止法。昭和では常識としてまかり通っていた気合い、根性による指導方法が終焉を迎えた瞬間です。

 

 自分は建築業界にいるのでお察しの通りまだまだ昭和の空気感漂う現場が多いですが、5年・10年経てばこうした風潮も淘汰されていくでしょう。現に、私が働いている現場では、週休二日体制に移行しつつあります。長時間労働を覚悟していた私からすれば、びっくりな出来事でした。

 

 現状を維持しようとする保守派と変わろうとする改革派のせめぎ合いは必ず起こりますが、やはり時代の流れには逆らえないのが歴史の掟なのかもしれませんね。

 

 さて、この投稿で私がフォーカスしていきたいのは、今後の人間関係の在り方と自己認識についてです。


 近年の急速なSNSの普及の煽りでしょうか。それとも平和?な日本社会がもたらした副作用なのでしょうか。20代の私から見て、現実での人間関係の希薄さを顕著に強く感じています。何を言おう、この私が一番ドライなんじゃないか説もありますが。


 これはなにも私が人嫌いで、誰とも関係を築かず一匹狼として生きていこうなんて思ってのことではありません。その人その人の個性が分かりづらくなんとなく私から避けてしまっているように感じています。


 なんというか、みんな似た個性の人が増えたかのような。

 なんというか、みんなが好みそうなものをSNSでアップして、本当は何が好きで何が嫌いかはっきり見えないような。

 なんというか、SNSで振り回されているような?自分の絶対評価よりもみんなの相対評価つまり「いいね」の数に支配されているような?


 まあ、確かに「いいね」が増えると気持ちいいですもんね。ただ、それは高級ブランド物のスーツに着せられている大学生みたいな感じで、SNSに踊らされているように見えます。(つまり、ちょっと滑稽)


 気持ちは分かるんですが、本来SNSはツールとして使いこなすものであって、評価は自分はこう思う!という互いの「絶対評価」によって価値観を認め合うもの。


 つまり、承認欲求を強く刺激する誘惑を振り切って初めて使いこなすことが出来るツールだと思うんですね。それが出来ずに心が折れてしまうことをSNS疲れとでも言うんでしょうか。。。


 ここからは私の持論になりますが、自己認識の在り方は大きく異なっていくでしょう。つまり、周りの評価に振り回されない自分の判断、価値観を貫くこと(あるいは守り切ること)。「自分」という独自性の追求。「他者」という自分とは異質な存在の承認。こうした要素が世界の常識(歴史に言い換えるなら「正しいこと」)に置き換わっていくはずです。


 その根拠は、SNSの普及を止めるのはもはや不可能であり、これからは私生活と切っても切り離せない存在になりつつあり、そうした身近なSNSからの逃避は社会的な孤独を生む可能性すらあります。だからこそ、自分で使いこなしてコントロールしていく必要があるのです。


 戦うべきは他者ではなく、自分自身ということなのでしょうか。


 自分らしさーその正体は自分の中の興味の塊(つまり価値観)みたいなもので、それを追求していくと勝手に外に滲み出てくるものなんじゃないかと。


 自分が変化することで、離れていく親しい人もいるはずです。私なりに過去のひと時を共有した友達や恋人の大切さは分かっているつもりですが、経験上、残念ながら自分の道を歩んでいく以上、どうあがいても離れるときは離れるというのが世の掟…みたいです。


 まあでも、だからといって他者の人生で生きるなんて芸当、僕にはできませんから。それに、自分の価値観で世の中を歩むできるようになれば、そんな自分に共感する新たな友人にも恵まれます。


 情報が溢れかえって何が正しいか全くわからない今の時代、自分の価値観こそが行動や判断の基準として強く求められてるようになっていきます!


 会社の上司が正しいと言ったことは、他の会社では非常識―なんてことはザラですからね~。


 さて、明日も仕事だ。がんばるか~