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「作品を鑑賞する」とは何なのか、ロラン・バルト『作者の死』から考える。【PhilosophiArt+】

こんにちは。成瀬 凌圓です。
今回はロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪 光 訳、みすず書房、1979年)から「作者の死」を読んでいきます。


noteを書くのは「学びを自分の武器にするため」

内容に入る前に、少し自分のことについて書かせてください。
僕は大学で哲学を学んでいます。
哲学についての授業を受けながら、学芸員資格(博物館の専門的職員になるための国家資格)を取るための授業もとっています。

哲学のことと、博物館について(ここでは主にアートの知識とします)の両方を学んでいく中で、どちらの学びも活かせる研究がしたいと考えるようになりました。
2024年になってから、「PhilosophiArt」という名前をつけてnoteで投稿をしているのは、哲学やアートについての本を読んで得た学びを自分の武器にしたいと思ったことがきっかけでした。

noteにまとめる時間があるんだったら、もっと本を読めばいいのに…と思う方がいるかもしれません。
そもそも、「学びを自分の武器にするってどういうこと?」と疑問に思う方もいると思います。
僕がnoteで投稿を続けるのは、読むだけよりも自分で文章にまとめたほうが身に付く(自分の武器になる)と思うし、そう言われているからです。

皆さんはこの図を見たことがありますか?

平均学習維持率 (ACRLog より)

上の図は、ラーニングピラミッドと呼ばれる図で、学習方法ごとの定着度を表しています。ピラミッドの頂点から下に行くほど定着率が上がることを示しています。
数字に根拠はないらしいのですが、読む(Reading)よりも実演(Demonstration)したり、誰かに教えたりする(Teaching Others)方が定着しやすいこと自体は否定されていません。

そこで僕は、哲学書やアートに関する本を読んだら、noteにその内容(と自分の考え)を投稿するようにしようと決めました。定着すればするほど、自分の武器と呼べると思ったのです。

僕はいま、美についての哲学「美学」を研究したいと思っています。
哲学の中でも、アートとのつながりが一番強い哲学だと思ったからです。
研究する上で自分の主張をしっかり持てるように、まずは美学の古典とも言われる、カントの『判断力批判』を読むことにしました。
その記事については、下のリンクから読んでみてください。

しかし、美学はあくまで哲学の一分野です。
学芸員資格のための勉強で手に入れたアートの知識も、自分の武器にしていきたいと思っています。

哲学書からアートを考える「PhilosophiArt」という記事に対して、アートに関する本をまとめた記事を「PhilosophiArt+」と名付けて投稿することで、哲学もアートも自分の武器と言えるようになるのが目標です。

ロラン・バルトを読もうと思った理由

少し自己紹介が長くなってしまいました。
今回読んだ、ロラン・バルト『物語の構造分析』の話に移ります。

僕がバルトを選んだのは、彼が文学や映画、写真などについて批評していたことにあります。
美そのものに着目する美学とは違い、バルトが見ていった文学や写真などの、アートそのものに目を向けることで、新しいアートと哲学のつながりを見られると思い、選びました。

「作者の死(The Death of The Author)」は、バルトが1967年にAspen Magazineという文芸雑誌で発表した論文になります。

では、内容を見ていきます。

「作者の死」によって、「読者」が誕生する

バルトは、文章の冒頭で読み手にこう問いかけてきます。

中編小説『サラジーヌ』のなかで、バルザックは、ある女装した去勢者について語り、つぎのような文を書いている。⦅それは女特有のとつぜんの恐れ、訳のわからない気まぐれ、本能的な不安、いわれのない大胆さ、虚勢、えもいわれぬ感情のこまやかさをもった、まぎれもない女だった⦆と。しかし、こう語っているのは誰か?

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪 光 訳、みすず書房、1979年)
「作者の死」 より

登場人物の会話ではない、地の文は誰が語っているのか。皆さんはどのように考えたでしょうか。著者バルザックや、物語の主人公でしょうか。万人共通の考えとして書いているかもしれません。

しかし、この語り手を知ることは永久に不可能だとバルトは言います。
その理由を「エクリチュールは、あらゆる声、あらゆる起源を破壊するから」としています。

エクリチュールは、書き言葉のことを指します。フランス語のécriture(文字、筆跡)から意味が派生したものになります。

つまり、書かれた文字から誰が言ったか、誰が書いたか(という起源)はわからないということです。
このことを「作者の死」と言っています。

「作者の死」は、言語学からも示されているとバルトは言います。

言語学が示すところによれば、言表行為は、全体として一つの空虚な過程であり、対話者たちの人格によって満たされる必要もなしに完全に機能する。言語学的には、作者とは、単に書いている者であって、決してそれ以上のものではなく、(以下略)

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪 光 訳、みすず書房、1979年)
「作者の死」 より

文字に人格はなく、言葉で何かを表現することは空虚である。
こう考えることで「作者」という存在が遠ざかっていくと考えました。

「作者」の存在が遠ざかることで、文章に人格を見出す必要がなくなると、その文章を“解読する”ことは不要になります。
しかし、すべてのエクリチュールが読者の元に届くことから、「作者の死」と同時に「読者の誕生」があるとバルトは考えたのです。

私たちは本当に「作品」を見ているのか

バルトは、文章における作者の存在にフォーカスして、「作者の死」を主張しました。
ですが、このことは文章だけでなく、美術や音楽にも言えることだと思います。

実際に、バルトは現代の美術批評についてこのように言っています。

現代の文化に見られる文学のイメージは、作者と、その人格、経歴、趣味、情熱のまわりに圧倒的に集中している。批評は今でも、たいていの場合、ボードレールの作品とは人間ボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、と言うことによって成り立っている。つまり、作品の説明が、常に、作品を生みだした者の側に求められるのだ。

ロラン・バルト『物語の構造分析』(花輪 光 訳、みすず書房、1979年)
「作者の死」 より

作品の説明が、作品を生みだした者を説明することによって成立している。
それは、作品を鑑賞したというよりも作者についての理解が深まっただけなのではないかと思ってしまいます。

バルトはこの論文の最後に「読者の誕生」という言葉を使っています。
「芸術は、“作品”と“鑑賞者”によって成立している」
これがバルトの主張ではないでしょうか。

作品に込められたメッセージをより理解するために、作品を生みだした人の過去や、そのバックグラウンドの情報は役に立つかもしれません。
でも、あくまで“役に立つだけ”なのだと、僕は思います。

作品そのものを自分なりに鑑賞し、それぞれが感想を持つ。
カントが『判断力批判』で説いた「趣味判断」に近い考えだと感じました。

「趣味判断」という言葉については、下の記事に書いています。
よかったら、読んでみてください。

「芸術は、“作品”と“鑑賞者”で成り立っている」
どのジャンルであっても、この2つがなければアートビジネスは続かないし、美術館や博物館などといった施設もなくなってしまいます。

だからと言って、作品を生みだし続けているアーティストをリスペクトしていないわけではありません。彼らも芸術をつくる大切な人たちです。

美術館で展示される作品には、その解説としてキャプションがつけられていることが多いと思います。そこには作者についての情報が書かれているのがほとんどです。

ロラン・バルトの「作者の死」を読んだことで、美術鑑賞のしかたを少し変えてみようかなぁと思いました。

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