見出し画像

美しさは、「共通した感情」で判断している。【PhilosophiArt】

こんにちは。成瀬 凌圓です。
今回は、18世紀の哲学者、イマヌエル・カントが書いた『判断力批判』を読みながら、哲学とアートのつながりを探していきます。
この本を深く理解するために、全12回に分けて読んでいきます。
1冊を12本の記事に分けて読むため、読み終わるまでが長いですが、みなさんと学びを共有できればいいなと思います。

第5回の今回は「趣味判断(≒美的判断)の様相」という言葉について考えていきます。

これまでの記事は下のマガジンからお読みいただけます。


前回(第4回)のおさらい

前回読んだ第10節〜第17節では、「美の性質」について書かれていました。
この部分では、「形式的合目的性」という言葉を中心にカントが主張しています。

そもそも“合目的性”という聞き慣れない言葉は、目的を持った因果関係のことを表しています。
その前に“形式的”とついているのは、この合目的性から、目的が取り除かれているからでした。目的のない合目的性は、一見すると矛盾しているように見えますが、カントは「これこそが趣味判断に必要である」と考えました。

しかし、前回読んだ部分では、美的判断を他人に伝達することができる理由(「この花、綺麗だね」と相手に伝える)や、他人の美的判断に共感できる根拠として挙げられていた「主観的な普遍性」については明らかにされませんでした。

今回は第18節〜第22節に書いてある「美的判断の様相」について読んでいきたいと思います。

美的判断は「範例的な必然性」を持っている

カントはまず、美的判断には「範例的な必然性」があると言います。

カントによれば、趣味判断はある普遍的規則の実例として、あらゆる人が賛同すべきものとみなされなくてはならないが、この規則はけっして概念的に把捉されえない。すなわち、規則はそれ自体としては明示できず、ただその実例が与えられるのみである。こうした事態を指すために、カントは「範例的」という語を用いている。それは、個々の実例がそれとしては明示することのできない規則を具現する、という事態である。

小田部胤久『美学』(東京大学出版会、2020年) 第Ⅳ章 趣味判断の範例性 より

どんな規則なのか、というその規則自体を掴むことはできないけれど、例を与えられることによって、規則があることが把握できるとカントは考えています。

カントはこれまでに「美的判断が全ての人に同意を求められる」と主張してきました。

もしもその人があるものを美しいと主張しようとするのであれば、その人はそれが他人にも同じ適意を与えていることを要求しているのである。そのときその人は自分のためだけに判断しているのではなく、すべての人に代わって判断しているのである。

カント『判断力批判』(上)(中山元 訳、光文社古典新訳文庫、2023年)
080 美の判断の普遍性 より

美的判断は、主観的な判断でありながら、すべての人に共通した判断であるとカントは言っています。
他人が「その花、綺麗だね」と言ったときに共感できるのは、その判断がすべての人に共通していて、個人的な欲求とは無関係だから、と言えます。

主観的な判断には、客観的な根拠がありません。
客観的な根拠に基づく判断は論理的で、客観的な判断になってしまいます。

主観的な判断は、主観的な根拠を持つことになります。
カントはその根拠を「共通感覚」であるとしました。

共通感覚が他者への伝達を可能にする

この「共通感覚」を前提としたとき、他人に対して「この花、綺麗だね」と伝えられる理由も説明できるとカントは主張しました。

ここから先は

1,507字
この記事のみ ¥ 100

最後まで読んでいただきありがとうございます! いただいたサポートは、書籍購入などnote投稿のために使わせていただきます。 インスタも見てくれると嬉しいです。