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カントやウィトゲンシュタイン…哲学者たちに「先生」はつけるべきか?

こんにちは。成瀬 凌圓です。
今回は、哲学者への敬称について考えてみました。

大作曲家の「バッハ“先生”」「ブラームス“先生”」

先日、広上淳一氏(東京音楽大学 指揮科教授)のお話が聞ける機会がありました。広上氏は、1月から3月に放送していたTBS系ドラマ『さよならマエストロ』の音楽監修をしています。

ドラマの中で指揮者の夏目俊平(西島秀俊)は、作曲家に「先生」と付けていたのが印象的でしたが、実は広上氏のアイデアだと今回の話で知りました。

お話の中で、「音楽は大作曲家の下に、万人のためにある。僕たちは彼らが作った曲で演奏しているから、リスペクトをするのは当然」という内容の話をしていて、なるほどと思いました。

広上氏は音楽を作った大作曲家をリスペクト。
じゃあ自分だったら、なんだろうと思いました。

身近なものだと、大学で学んでいる哲学が浮かびました。
ならばこれからは、僕も哲学者に「先生」を付けようかとその時は思いました。でも、数日考えて、“いや、辞めておこう。これまで通り、呼び捨てでいこう”という結論に至りました。

哲学する=組み手する

哲学の研究は、格上選手とのスパーリング(格闘技の実践練習のこと)に似ている気がします。
相手(研究する哲学者)をある程度尊敬していても、相手に対して自分が全力で立ち向かうには対等のほうがいいだろうという気がするんです。

僕は小学生の頃に空手を習っていました。
組手(スパーリング)のときは、相手が格上でも容赦なく立ち向かう。同じフィールドにあがった人間同士、自分の実力を出し切る。全力を尽くしたからこそ学べるものは多かったと思います。
試合が終われば、相手が自分と組んでくれた感謝や相手の技への感動、“自分もそうなりたい”といった尊敬の念が湧いてくる。それと同時に、自分の技術不足にも気付かされる。自分はまだ未完成だなぁ、とやる気が出てくる。

そういう点で哲学は、この組手に近いと思ったのです。
論文やレポートでは、どれだけ有名な哲学者であれ、自分の考えを並べて見解を述べることがほとんどだと思います。
ただ、哲学に興味を持った1人の人間として、哲学者たちが遺した書物を読むと、彼らの理論の一貫性、それまでの学者が主張してきた主義への批判が緻密にされていることに感服してしまいます。

哲学者たちを尊敬はしているけど、僕も大学で哲学を研究する学生です。
哲学の議論に足を踏み入れてしまった人間としては、なんだか呼び捨てのままのほうがしっくりくる気がするんですよね。
敬称を付けて接してしまうと、全力で立ち向かうのが恐れ多くなってしまうのではないかと思ってしまいます(大学の先生方はもちろん「〇〇先生」とお呼びしますが)。

でもこの哲学者に対する敬称略は、もはや「先生」と呼べる領域にすらいないという、最上級の敬意なのかもしれないとも思いました。

リスペクトの込め方は難しいなぁ…

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