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それはそれは、ミルクティーな時間でした

YouTubeのマイ ミックスリストを流しっぱなしにしていると、椎名林檎の「愛妻家の朝食」が流れてきた。パソコンの横には、午後の紅茶のミルクティーが置かれている。

一口飲んだときにふっと浮かんだのが、
「それはそれは、ミルクティーな時間でした。」という謎の一文。
なにをそんなポエミーなこと言ってんだか…と恥ずかしくなったものの、しばらくの間は頭からこの言葉が離れなかった。

ほろ苦い思い出、甘いひととき、なんて表現はあっても、「ミルクティーな時間」なんて比喩はめったに見かけない。自分でも、どこの引き出しが開いて出てきたのかわからない。

味覚は、五感の中で最も意識的に使われている感覚ではないだろうか。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚は意図せずとも働いていることが多い。目を開けている限り何かを認識し、風で葉が揺れる音や社会が動く音が聞こえてくる。様々な場所や人の印象は香り・匂いで強まることもある。身体は常に何かと接触している。

ところが味覚はどうだろう。何かを食べるとき、飲むときの刺激がほとんどではないかと思う。味覚以外は開かれていることが多いのに対して、味覚は飲食の時くらいしか開かれることのない“閉ざされた感覚”とも言える。

そして、味という刺激の持続はそう長くない。短い強烈な刺激は、次第にフェードアウトしていく。だんだん閉ざされていく感覚。

人間の記憶を形容するときに味の表現が多いのは、ある時点の短く強烈な記憶であることを表したいからではないだろうか。自分がそれまで感じてきた甘味や苦味、酸味という強烈な刺激と比喩がリンクして、想像が広がるのだと思っている。

話を戻して、「ミルクティーな時間」について考えてみる。
考えれば考えるほど、食レポの力が試されているように思ってしまうが、できるだけ努力する。ピンとこなかったら、飲んでみましょう。

午後の紅茶は、私にとってかなり甘く感じる飲み物だ。今日はたまたま家にあったから飲んだけれど、おいしい無糖のほうが好きだったりする。自分でカフェラテを作るときに砂糖は入れないし。
これだけ考えれば「甘い思い出」と言っているのとほとんど同じだと思う。

でも、ジュースの甘さとミルクティーの甘さは違う気がする。
ほんの少しの茶葉の苦味があるからこそミルクの甘さが引き立っていて、苦味を包む甘味の包容力が感じられるとでも言えようか。苦く感じた時間も含めて甘いと感じられるのが「ミルクティーな時間」なのだろう。

甘い飲み物はたくさんあれど、午後の紅茶のミルクティーは余韻が長いような気がする。飲んだ後もしばらく口の中に残る感じ。強烈な瞬間の刺激ではなくて、ゆっくりと嗜むイメージのほうがしっくりくるのではないか。
その甘さの余韻にしばらく浸っているのは「ミルクティーな時間」のもう一つの特徴とも言える。

こんなことを言って、どうしたいんだろう。
夏休みに家で一人、時間を気にすることなく物思いにふけられる幸せを噛み締めている。いい時間「隠遁」を過ごせている。

こういう孤独なひとときもアリだなぁ、と思って残りのミルクティーを飲み干した。

それはそれは、ミルクティーな時間でしたとさ。

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