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松尾芭蕉が旅立ったのは、北千住? それとも南千住?【5/16は旅の日】

本日、5月16日は、旅の日です。
これは、1689年5月16日(陰暦だと3/27)に、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ出立したことにちなみ、「日本旅のペンクラブ」が1988(昭和63)年に制定しました。

日本旅のペンクラブとは、作家やライター、編集者、旅行ジャーナリスト、写真家、画家、ラジオパーソナリティー、歌人、大学教授などさまざまな人々によって構成されている倶楽部です。旅の文化の向上や自然環境保護、地域活性化のため、取材例会、観光振興への提言などさまざまな活動を行っているそうです。

松尾芭蕉が旅立った千住大橋の北詰

この日に松尾芭蕉が奥の細道の旅に出たわけですが、このときの出立地がいまに伝わっています。

それが、東京・墨田川にかかる千住大橋です。北側の足立区北千住と、南側の荒川区南千住を結び、多くの車が往来しています。江戸時代には、日光街道の起点として多くの旅人が渡っていました。

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芭蕉は、住んでいた深川(現在の門前仲町)から、千住大橋付近まで船で隅田川を北上し、「千住といふ所(『おくのほそ道』)」で下船し、旅に出ました。それが、この千住大橋の北詰にあたるといわれています。

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橋の北側にある交差点には、白い松尾芭蕉像が置かれた「千住宿奥の細道プチテラス」という小さな公園があります。看板には、出立にあたり芭蕉がここで詠んだ矢立初め(やたてはじめ)の句「行春や 鳥啼魚の 目は泪」が書かれています。(画像出典:東京商工会議所)

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まさに、この千住大橋の北詰から芭蕉が旅に出たということがありありと伝わってきますね。

本当の出立地は南詰め!?

千住大橋の北詰が矢立初めの地とされていますが、なんと、出立地はここじゃなくて別の場所だ! と主張している自治体があります。
それが、千住大橋を挟んで南側に位置する荒川区です。

荒川区側の主張では、芭蕉が出発したのは公園がある北千住ではなく、千住大橋の南詰め、つまり南千住だというのです。
公園などもつくられているところに異論を唱えるとは、それなりの根拠があるのでしょう。では、いったいどんな理由で南千住説を推しているのでしょうか。

じつは船で千住まで来た芭蕉は、橋の北側に降り立ったのか、それとも南側なのか、はっきりわかっているわけではありません。江戸時代の絵図などを見ても、船着き場は北にあったり南にあったりと、時期によってまちまちだったそうで、芭蕉が旅立った当時にどちら側にあったのかわかりません。
つまり本当は北千住と決まっているわけではなく、南側で船を降りて橋を渡って旅に出た可能性もある、ということです。

さらに南千住の素戔嗚神社(すさのお じんじゃ)には、江戸時代に建立された芭蕉の句碑があります。芭蕉は旅立ちの前にまず素戔嗚神社に参ってから出立したのかもしれません。

さらに、橋は当時、越境の象徴でした。江戸を去るという心境であったならば、江戸との境である千住大橋を歩いて渡ったのかもしれません。

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以上が荒川区側の論拠です。(▲南千住の駅前にも芭蕉像があります)改めて見ると、確かに説得力がありますね。

しかし一方の足立区も、北へ旅立つのなら、船も川の北岸に寄せるのが自然。さらに当時は、飛脚問屋などは北岸にあったことから、南岸で降りる必要がなかった、という真逆の説を主張しています。

論争のきっかけになったイベント

じつはこの出立地の食い違いですが、じつは自治体同士の根深い因縁がありました。
そのきっかけとなったのは、松尾芭蕉の旅の出立300周年を記念して、1989(昭和64)年に催されたイベントです。このときに行われた旅立ちのデモンストレーションに問題がありました。
それは、芭蕉に扮した当時の江東区長が旅立ちを再現するというもの。このとき、江東区長は船で千住大橋の北詰に着岸し、それを足立区長(こちらも芭蕉役に扮した)が迎えるという形になっていました。
つまり、北千住説に拠った演出になっていたのです。

ここで当時の荒川区長が激怒。そもそも荒川区長はイベントに呼ばれてすらいませんでした。そして「なぜうちを入れないのか! 芭蕉の出立地は南千住だったかもしれないのに!」と足立区に対し猛抗議。それ以来、お互いのバラバラの主張をするようになったのです。

と言っても、このきっかけは昔の話。いがみ合い続けているわけではなく、今では芭蕉関連のイベントなども共同で行ったりしているのでご安心を。

実際の出立地は「わからない」

どちらの主張もそれなりに納得させられる部分がありますが、実際はどっちだったのでしょうか。
結論から述べると、歴史の専門家でもこの問題は決着のつけようがありません。出立地を明確に示した史料がないため、北詰だ! あるいは南詰だ! と断言できないのです。

前述したとおり、当時の隅田川の船着き場は両岸にあり、どちらに寄せるか決まっているわけではありませんでした。当時の船は、いまで言うタクシーのようなもの。接岸するときに空いているほうの岸へ寄せるのが一般的でした。
つまり船着き場の混み具合で降りる場所が異なるわけです。そうなると、どちらに寄せるかはそのときになってみないとわかりません。(▼歌川広重作『名所江戸百景』の「千住の大はし」では、両岸に船があります。)

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言い換えれば、降りる場所なんてそんなもの。タクシー降りる場所をいちいち気にする人なんていないように、芭蕉本人すら気にしていなかったのではないでしょうか。

いまだ結論の出ない出立地論争ですが、もう細かい理屈は抜きにして、広く「千住」でいい気もしますね。


参考資料:
東京商工会議所HP
朝日新聞

Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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