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千葉県の習志野は、人の名前が由来!【4/29は陸軍近衛兵大演習の日】


本日は、昭和の日です。
しかし、今日のオモなんではもっとマニアックな方向へ行き、明治時代の今日に現在の習志野で近衛兵の大演習があったことにちなんだ雑学をご紹介いたします。

陸軍近衛兵の大演習

1873(明治6)年の今日、千葉県の下総大和田原(現在の習志野)で、陸軍近衛兵の大演習が行われました。大和田原とは、現在の陸上自衛隊習志野演習場から成田街道を挟んで、高根台くらいまでの一帯です。

このとき、陸軍大将である西郷隆盛の指揮の下で演習は行われ、なんと明治天皇もわざわざ観閲に来られました。その後も明治天皇はこの地に足を向けられることが多く、公式な記録では計14回も行幸したとされています。

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この明治6年の大演習の際、この「習志野」という地名がつくられたという逸話が残っています。その前に、この地域の歴史を掘り下げてみましょう。

一帯の歴史概観

江戸時代の一帯は、馬の放牧場でした。小金牧という、下総台地一帯に広がっていた広大な牧場の一部であり、「小金ヶ原」「大和田ヶ原」なんて呼ばれていました。
牧場になっていた理由は、水源が少なかったからです。平らで広い土地でしたが、川などが少なかったため、江戸に近い土地柄であるにもかかわらず、これといった大きな集落や町ができなかったのです。
そのため、昔から軍馬を育てる場所とされており、古くは源頼朝の時代にまでさかのぼり、そして幕末に至るまでずっと牧場でした。(▼大正時代の景色 おおむね昔からこんな感じだったと。)

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明治維新が到来すると、東京に近いという理由から、新政府はここを陸軍の演習場に定めます。そして冒頭の大演習が行われるのです。

「篠原に習え!」が由来!?

この大演習のとき、ひときわ目立っていた指揮官がいました。
それが、薩摩藩出身の陸軍少将・篠原国幹です。

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剣術、馬術、槍術、弓術のほか、学問にも通じた文武両道の人物で、鳥羽・伏見の戦いでは小隊隊長として参戦。さらに江戸の彰義隊戦争のときは寛永寺の正面にあたる黒門攻めを担当するなど、数々の武功を上げました。のちに下野した西郷隆盛について鹿児島に帰り、西南戦争で命を落としますが、この演習のときにはまだ軍の中枢にいたのですね。

観閲された明治天皇は、この篠原の指揮ぶりに大いに感心しました。戊辰戦争を正面から戦い抜いた指揮官です。さぞ勇猛な指揮ぶりだったのでしょう。
天皇はこのとき、周りの人に「篠原に習え!」と言ったと伝わっています。

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じつはその一言が習志野という地名につながっているというのです。
篠原に感心した天皇はその後、勅語をもってこの演習場を「習志野ノ原」と呼ぶように賜りました。つまり、習篠原➡習志野原というわけですね。
この直後は同年5月17日、太政官達によって実現し、大和田ヶ原と呼ばれていた一帯は「習志野原」になったといいます。
この一連の出来事を記念し、この場所には「明治天皇駐蹕之処の碑」という記念碑が建てられています。

「慣らし」説も

ただ、上記の逸話はあくまでエピソード。
1995(平成7)年発行の『習志野市史・第1巻』に載っていますが、あくまで逸話として紹介されているのみで、史実とは明記されていません。

別の説では、演習を言い換えた「慣らし」という言葉が由来するものもあります。慣らし野➡習志野というわけですね。これも本当のところはわかっていません。

ただ、この明治6年に演習場の一帯が「習志野」という地名になったことは事実。このときに演習をした近衛兵が中核となって、のちに大日本帝国陸軍が組織され、また日露戦争において秋山支隊の活躍が国民に伝わると、この地名は全国的に知られるようになりました。

よく見る地名にこんなエピソードが隠されていたとは、地域を読み解くのは面白いですね。


参考資料:

『皇室がふれた千葉×千葉がふれた皇室』千葉県文書館、宮内庁区内公文書館編(千葉県文書館)


Ⓒオモシロなんでも雑学編集部

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