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制作日誌4 今を「精神的ないし肉体的に、自分の操作が及ぶ範囲」と仮説づけて、暮らしてみる姿勢

今を大事に生きようといわれると
むっとしませんか、反骨精神沸いてしまうというか。

根っこの部分で、「まあ僕は今を大事にしているけどね」といった、相手からの、上目立場な言葉と受け取ってしまうというか、自分だって必死なんだぞ、お前に何がわかるんだと。

とにかくまあ、とはいえ、遥か昔から使われている、含蓄ある(らしい)言葉を無碍にしてはいけないなと。
一時期、それなりに「今を大事に生きるとは?」を考えていたわけです。
東洋哲学でも、今(無)は大きなテーマですしね。

そもそも、今とは何ぞや、
今を大事に生きた場合の功利性とは何ぞや
がわからないと腹落ちがしない。
中学時代、高校時代と、大人の言うことの上げ足をとるところから大きな進歩がないけれど、まあ、これは自分で定義つけるしかないないなと。

今とは、自分の中では
「精神的ないし肉体的に、自分の操作が及ぶ範囲」とざっくり定義する。
移ろいゆくので、厳密には点であり、点が移ろうので範囲として見えるだけですけど。

で、今を大事に生きる功利性とは
もしかすると、「今=「精神的ないし肉体的に、自分の操作が及ぶ範囲」」が、過去と未来を同時に定義できる、つまり、今を通して
望む過去と未来を作れるところではと考えた。

要は、「今=操作し、意思決定できる点」において
試験勉強を始めるとすると、「試験に受かった未来」と「日々、コツコツと積み上げた過去が手に入る」もっと、ラフにいえば、今、ピザを食べまくることを決めた瞬間に「めっちゃ太った未来」と「後悔するほどの暴飲暴食の過去」が出来上がる。

ということは、「今」の意思決定デザインを精緻にすれば、
求めた人生にたどり着くのではないか。と考えた。
そして、「今」の何かを決めるときに我々はなんと無意識なんだと気付いた。

要は、今と呼ばれる点の無意識をどこまで削って、
臨む未来と過去を作るかの練習中なのです。

いやまあ、そんな感じでコンテンツ作りも漠然と積み上げず、
盲点や無意識、ルーティンを疑い続けたいよなと。
書き疲れたので休憩

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