大川なつみ

初めまして。 お菓子教室・イラストレーター・各種ヒーリング・開運メイクなどアーティス…

大川なつみ

初めまして。 お菓子教室・イラストレーター・各種ヒーリング・開運メイクなどアーティスト活動をしています。 ずっと心にしまってあった、他界した父とのエピソード(時々母も登場)・劇団ルネッサンス団長として父の生きた証を、気ままに綴って行きたいと思います。

マガジン

最近の記事

個展のお知らせ

お久しぶりです。 1年以上noteをhochi(放置)してしまい、今更出る幕かよっ! と一人ツッコミしている私はもう今年の5月で48歳になります。 (勝手に自己申告) 実は私、2018年の秋から更年期に入ったらしく、そこからの半年は外出もままならないほどの不調を体験していました。 そこから少し良くなったり、また落ちたりを繰り返しているうちに、 「私、女終わるんじゃね?目眩や呼吸困難で死ぬんじゃね?」 と、焦りを感じておりまして。 ただ、焦るほどに物事というのは

    • 恥ずかしい=嫌い?

      写真の犬が、おバカなカピ♡ 多分四年生の頃。 帰って来るといつも大きく手を広げてハグしてくれた義行に、だんだん照れが出て来た私は、歪んだ笑顔で近寄って行った。 その日、義行は 「ん!?頭が臭い!!」 と私に言った。 当然子ブタは傷付いた。 当時は肥満児。 好き放題お菓子を食べていた私の頭からは、脂の匂いでも漂っていたのかもしれない。じゅわ〜ん。 だいたい男性という生き物はそういう生態だと思うが、義行も人の話を聞いていないことが多かった。 あの日もそうだった

      • 交換ノートと、頭の良くないカピの話

        小学一年生になった頃、すれ違い生活の中でもコミュニケーションを取ろうと、義行は私との交換ノートを提案して来た。 平仮名を覚えたての私は喜んで応じた。 それにしても「声が低くておっかない」って、今の私も言われていること(汗) とっきどき、能里も書いていた。 日記を読み返すと、あのボロ屋での家族の日常が、まるで頭の中で8ミリビデオが流れているかのように再生される。 日記によると小さい頃の私は、まるで犬ころのように義行に懐き、愛され、思うがままに嬉しさや寂しさをぶつけるこ

        • バージョンアップボロ屋へのお引っ越し

          私が小学校に上がる頃。 隣の家に引っ越した。 隣には3歳の時に引っ越して来て仲良くなった、幼馴染の慎ちゃん家族が住んでいたのだが、同じ敷地内に二階建ての家を新築し、晴れてボロ屋を脱出したのであった。ボロ屋仲間だったのに裏切った上、隣で見せびらかすかのように新築ライフを満喫していた慎ちゃん家族であった。(被害妄想) 同じタイプのボロ屋とはいえ、こちらには8畳ほどのプレハブが付いており、お風呂へも部屋から行ける! 私は幼稚園年長さんから、ピアノが無いのにピアノを習い始めた

        個展のお知らせ

        マガジン

        • 娘の活動
          1本
        • ボロ屋の思い出
          5本
        • 義行の歴史
          3本

        記事

          ボロ屋で見つけた両親の愛

          義行と能里は、よく喧嘩していた。 大概の原因は、義行の帰宅時間が連絡も入れずに遅いこと・約束を守らないことなどだったと思う。 今でも鮮明に記憶している場面がある。 私が3〜5歳くらいの頃。 クリスマスの日、家族でお祝いすることを楽しみにしていたが、その日も義行の帰宅時間は遅かった。 私が布団に入ってウトウトしていると、玄関から喧嘩する声が聞こえて来た。 「なっちゃんが楽しみにしていたのに、なんで連絡もよこさないの!?」 「こっちだって付き合いがあるんだ!仕事なん

          ボロ屋で見つけた両親の愛

          ボロ屋暮らしの3人家族

          私が15歳になるまで、家族3人が時に仲良く時に切なく暮らしていたのは、六畳四畳半・木造平屋の借家だった。 風が強い日は、割れそうな薄いガラス窓がガタガタと鳴り、台風が来た時は本気モードで机の下に避難して過ごした。 玄関の引き戸も、薄いガラスに木製の枠。人差し指でも割ることが出来そうだった。 鍵は穴に入れたまま、ぎゅっと閉まるまでクルクルと何周も回すタイプ。(このタイプ、知らない人も多いのでは?) 風呂はなんと!外から入らなければならず、裸の母は私を抱き、玄関からそーっ

          ボロ屋暮らしの3人家族

          まずはざっくり『大川義行』67年の歴史(後半)

          1991年 市民から出演者を公募し、千葉市政70周年記念市民ミュージカル『夢のワインランド』を成功させる。 このミュージカルのオーディションを受け、私のクラスメイトの女子が出演した。その子から「先生の事務所にエロビデオがあったよ。」とニコニコしながら告げられ、まだウブかった私は大ショックを受ける。でも私も実は、義行の事務所でエロ本を発見したことがあった。大の大人がそういったものを所有しているのは当たり前のことだけれど、実の父親の好きなエロジャンルを知るというのは、うら若き乙

          まずはざっくり『大川義行』67年の歴史(後半)

          まずはざっくり『大川義行』67年の歴史(中半)

          20代半ばを過ぎ、団員達が社会的な仕事を持ち離れて行く中、義行は劇団の存続と家計の為、様々な仕事を模索して行った。 名刺には『劇団ルネッサンス主宰』の他、『ライター』『カメラマン』などの文字が並んでいた。全てが独学だったが、得意分野の仕事をする為にはきっと、ハッタリも必要だった。 30代はヤマハ音楽教室の講師用機関誌を担当。 この仕事の特典で、浜松にある『つま恋リゾート』へ数回連れて行ってもらえた。数少ない家族旅行の楽しい思い出。検索したらまだ営業している! https

          まずはざっくり『大川義行』67年の歴史(中半)

          まずはざっくり『大川義行』67年の歴史(長くなりそうなので前半)

          1949年 教員の両親の元に4人兄弟の末っ子として生まれる。 中学生まではシャイボーイであった義行。 友達はと言えば、軽量級の力士。 自分で作った紙相撲のお相撲さんと便所で戯れる、内気な子どもだったという。 高校進学時には、昔気質の父親から、「家から通える距離の千葉東高に受からなければ、高校進学を諦めてもらう。美容師になればいい」と言い渡された。何かと粗雑に扱われがちな末っ子として生まれたことを、恨めしく思いながら育ったようだった。 一方、40歳にして授かった息子

          まずはざっくり『大川義行』67年の歴史(長くなりそうなので前半)

          「本当は大好きだったかもしれないパパ」のことをまとめたくなった。

          約4年半前、千葉市で最古の『劇団ルネッサンス』を主宰していた父・大川義行は、67歳でこの世を去った。 交友関係が広かった父の葬儀には、劇団員やOB・今までお世話になった方々500人あまりが詰めかけた。 外では「先生」と呼ばれ大活躍していたと見られる父だが、家庭向きの性質ではなく、家にはあまり帰って来なかった。 家庭での存在感が薄かったもんで、外での人望がまさかあそこまで厚かったとは知らず、葬儀に来てくれる方は300人くらいと想定していた私と母は、会場外まで押し寄せた弔問

          「本当は大好きだったかもしれないパパ」のことをまとめたくなった。