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まずはざっくり『大川義行』67年の歴史(中半)

20代半ばを過ぎ、団員達が社会的な仕事を持ち離れて行く中、義行は劇団の存続と家計の為、様々な仕事を模索して行った。

名刺には『劇団ルネッサンス主宰』の他、『ライター』『カメラマン』などの文字が並んでいた。全てが独学だったが、得意分野の仕事をする為にはきっと、ハッタリも必要だった。

30代はヤマハ音楽教室の講師用機関誌を担当。

この仕事の特典で、浜松にある『つま恋リゾート』へ数回連れて行ってもらえた。数少ない家族旅行の楽しい思い出。検索したらまだ営業している!
https://www.sainosato.jp/index.html


30代前半。自動車運転免許証の無かった義行の移動手段は自転車であった。

ある夜フラフラ蛇行運転の末、車に跳ねられ骨折。

入院中、お見舞いのお菓子を意地汚く独り占めした結果、体重増加。
「スレンダーで素敵」と言われた時代はここで幕を下ろす。


もともと千葉県愛が強く、寺社仏閣巡りをライフワークにしていたことから、JCN『歴史散歩の達人』・NHK千葉放送局『房総の伝説』・『房総寺社めぐり』・『ラジオドラマによる房総の伝説』などの構成・出演。

歴史散歩の達人は面白かった。
義行の背負うリュックの中には『歴達七つ道具』が入っており、煤けた石碑の文字を読むために、道具を取り出し綺麗にして読むシーンが個人的に面白くて頭に残っている。


劇団の方はというと、青少年の部『ドラマメイト』・主婦劇団『劇団ママ座』と、次々とジャンルを増やして行く。(後日、ルネッサンスのお話で詳しく書きたいと思う)


1989年 NHK教育テレビ『見つめよう自分』でキャスターとして全国を回る。

『見つめよう自分』は、青少年向けに「自分の心と体を大切にしよう」と呼びかける内容の番組であった。

動物実験でタバコの害を調べるロケから帰ってきた義行は、目に涙を浮かべてこう言った。「うさぎさんがかわいそうだったの…」

幼少期にも、鶏が締め上げられる様子を見て衝撃を受け、その後一切鶏肉を食べられなくなった、ガラスのハートの持ち主なのだ。


そんな優しくて涙もろい義行の歴史、後半へ続く。






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