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厳しさ考 <前編〜宿題など〜>

 私が指導者として親として必要だと思う絶対的スキルは「見守る」こと。これは私たちにとってかなり難しくはあるが、子どもたちにとっては嬉しいことである。それは「見守る」人は優しいから「見守る」人といると安心するからだ。そしてこの「見守る」ことの厳しさは子どもたちには見えないものだから。

「社会の厳しさ」って何

 何のバグなのか、子どもたちを見守る人は子どものことを考えていない、指導者や親としてのスキルが足りない、と思われがちだ。
私からしたら先回りしてあれやこれやと子どもに指示を出し続けること程、子どもたちの邪魔をしていることはないと思うのだが。

 よく聞く言葉に「子どもたちに社会の厳しさを教えるために」がある。
それを言う人は何をしていますか。子どもたちに厳しくあれこれと指示を与えていませんか。言う通りにしなかったら叱っていませんか。自分が思う「答え」に導くためにあらゆる手段(時に脅し)を駆使して子どもたちを自由自在に操っていませんか。

 私自身が社会に出てみて一番厳しいと感じたのは、常に選択が迫られるということ。社会の厳しさは「自分で考えること。選択すること」にある。でも「社会は厳しいから」と自分で決めたことを否定され、考えることも要らない程に指示され続けてきた人たちは社会に出て突然戸惑う。
結局上司の指示を待つ。時に「上司が言うことを聞かないと怒るから仕方ない」という状況の人もいるだろう。学校で培われた「従う」力が役に立ちました、という人もいるかも知れない。

 でも、本当にそうだろうか。もし上司の人間性が著しく危険だった場合、始めた仕事が自分を病ませる程に自分と合っていない場合、私たちはその仕事を続けるべきかどうかの選択を迫られる。「従う」教育や変化を嫌う教育、自分のタイミングを勝手に人に決められる教育を受け続けてきた人たちが大人になり、明らかにブラックな仕事を黙って続けて病んでしまった事例に多く出会った。その病みが深刻であればある程、再び社会に戻ってくることは困難になる。この人たちにもし「自分で選択する」「人の基準ではなく自分基準で考える」力が備わっていたら、この人たちはこんなに苦しむことはなかったのではないか、私はそう思っている。

英語の前に注ぐ力

 今英語講師として多くの子どもたちと接しているが、私は民間の英語教室、週に一度の数十分しか会わない立場でありながらも、子どもたちの根っこに注いでいる言葉がある。それは「あなたの考えが聞きたい」
 教室に通いたての幼い頃には、選ぶことを多くレッスンの中に入れる。「全員統一で黒を使え」とかあなたは女子だから赤かピンク、なんてことは絶対にしない。
What color do you like?
何かを描く時のペンの色一つ、必ず選ばせる様にしている。

 そして毎週一人一人の話を全員で聞く。私はそのどれにも絶大な興味を示す。あなたの日常、あなたの好みに興味を持っている人がここにいる、というメッセージを強烈に送り続ける。だから「伝えて欲しい」と。
最初遠慮がちだった生徒も、周りの目を気にしていた生徒も、恐らく他の場所で「判断されること」に慣れてしまった生徒も、程なくして自分のことを全員の前で話し出す。「伝える」ことへの安心感をここでは十分根っこに染み込ませて、その伝えたいことを英語に乗せることを始める。
この過程がないと、英語はその人のものにはならない。私たち世代の多くが英語で自己表現出来ないのは、英語が「判断されるもの」として根付いているからであり、決して安心して使える道具ではないからだ。

私は優しくて厳しい

 そんな私の教室では宿題は出すが、してくるかどうかは自分で選ぶ。
 体験レッスンでそう話すと、ほとんどの子どもたちはホッとして笑顔を見せる。もちろん教室生の子たちも私のことを優しい、と言う。
それでいい。私の厳しさなんて人に見せるものでもないし、子どもたちを脅すための道具でもない。

 学校の先生がよく「黄金の3日間」という言葉を使っていたのを思い出す。最初の3日間が大切。だから、子どもたちにとびきり自分は怖いと見せる選択もある、先生を怒らせたらこうなるぞ、と敢えて見せる人は多い。
学校がシステム的に多くの生徒を一人の先生が見る、ということになっているから、この方法も有効だと思うし実際有効に働いている現場も多く見た。

 私の小さな英語教室の黄金の3日間、習いたての最初の方はみんなで一緒に「自分で選ぶ」ことを考える。英語は目にすればする程、耳にすればする程、口にすればする程どんどん仲良しになれる。これは本当。だから、今回はテキストのこの部分のCDを聴いてきたらいいよね、というのが宿題の意味。でも私は皆さんのコンディションを知ることは出来ない。例えば運動会の練習で、他の習い事の試合前で、体調が優れなくて…諸事情で今週は英語まで気が回らない、そんな時は宿題してなくても全然OK。その代わり、せっかくだからレッスンにはちゃんと来て、レッスンでその分をグーンと体全体で吸い込んで帰って。
でも、もし「よーし、英語と仲良くなるぞー」と思ったら、そのタイミングには宿題を毎日でもして他の英語にも触れたりして、自分をグンと伸ばしてみてもいいよね。天井はないから、みんなが「伸ばしたい」と思った時にグングン伸びるよ。そんな話をコップの水が溢れるイラストを描いたりしながらする。子どもたちは幼いながらに「うんうん」と頷きながら聴いている。きっと自分は攻撃されていない、と思うから。自分にとって必要なことだと直感的に感じているからしっかり聴くのだと思う。
だって「宿題しなくてもいいよ」の話なんて、最高だもん。

 私が困るのはむしろ「今週は宿題をしていないから、教室には行かせられない」というおうちの方の言葉。いやいや、宿題は私のためにするんじゃないし、宿題をしないことは私に対して失礼でもなんでもない。生徒にも「あなたたちが宿題をしてもしなくても、先生の英語力は変わらない」とちゃんとお伝えしています。

 そう。ここには大きな厳しさが。私は言葉は優しいが「自分次第だよ」ということを伝えている。この考え方は主体的に生きるという大事な生き方に繋がるから、厳しくてもなんでも私の元を離れたずーっと先に子どもたちが主体的に「自分にとって」より良い選択をして生きていける様に。その願いを込めている。だから、かなり本気だ。

そしてもう少し大きくなったらこうも伝える。

 先生は毎回あなたたちに必要だろうなーって球を100%投げる。だけど、みんなに全部持って帰りなさい!ってみんなのバッグに無理やり押し込んだりすることはない。どのくらい持ち帰るかは、自分で決めてね。
今日はしんどいから0でもいい。今日は半分持ち帰ろう、でもいい。
 そしてその権利は全員同じ様にあるから、他の人がボールを持ち帰ることの妨害はしてはいけない。
 自分がどのくらい学びたいかを自分で決めることがこのクラスで許されていること、そしてそれは他の人にも同じ様に許されていること。

 私はこれを伝えることにとても勇気を振り絞る。聞こえは良いが、かなり厳しい内容だと思うから。それに私は本気だから。だから子どもたちには直球で届く。他の生徒を手伝う生徒はいても、「ズルい」と言う子はいなくなる。

 長くなりそうなので、英検のこと、オンラインレッスンのことは後編に続く。

↓↓↓後編



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