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みんなで幸せになろう

 私は自分のコラムで、よく「大人はこどもの邪魔をしないでおこう」と書く。それは何より自分へのメッセージ。私たちは長く生きている分賢くなっていると言えるかも知れないけれど、その経験やそこから得た影響によっては退化していると言わざるを得ないケースも多い。そして最近残念な方の大人をよく見るからこそ、これはやはり声を大にして「こどもの邪魔をしないでおこう」と言わなければいけないと思う。

教育ビジネス=shit

 私は教育を主な生業としている。いわゆる教育ビジネス界の端っこにいる人間だということ。でも教育ビジネスへの反発は持っている。矛盾していると思われるだろう。なんと言われても構わない。私は教育で食べている人間だ。でも自分の軸は「教育は人を幸せにするもので、それを追求するための学びや経験を人一倍得て、更に現状どうしたら教育で人を幸せに出来るかを追求し続けていること=自分の技術」という解釈。私が反発している教育ビジネスの捉え方は「いかにお金を出させるか」そのための教育。だから簡単。綺麗な言葉を並べる。成果を明らかに示す。脅す。それさえあれば人は簡単にお金を出す。

 でもどうだろう。私が思う教育は、その人の内面にあるもの。そして一人一人違うもの。全員まとめて「こんなことが出来ます」「こんな成果を出します」では語れないものなのだ。そして人を脅してお金を出させるなんて言語道断。でも、教育ビジネス界ではそれが簡単に出来てしまう。「綺麗な言葉を並べている」から。それにエビデンスが示されてるから。「英検〜人合格」「〜大学〜人合格」その仕組みや考え方はわからないけれど、取り敢えずそれが目に見えるわかりやすいエビデンスだと受け取られるのだから。
 不思議なことに、同じことを文部科学省にも感じている。学校の中にいると、空気を掴む様な実態のない言葉がたくさん使われているけれど、それがなぜか耳に心地よく安心してしまうから怖い。自分が保護者として聴いていた言葉は耳にとても優しかったけれど、プロとして見ると「どういうことかな」という内容のものが多い。数字だって、どうやって出したのか掘ってみると理解に苦しむ数字だってある。なんでも数値化すると人が信頼する、というのを見事に表している。そして謎の数値化の次には、曖昧な美しい言葉。なんとも取れそうで、解釈も広い。抽象的だけど安心感は与えることが出来る言葉たちの濫用。
 「思いやり」「絆」「コミュニケーション」はその代表格。実際は「思いやり」のない大人の姿や、「絆」という言葉のもとに弾かれる人たち、「コミュニケーション」が上から下の一方通行である大人の世界はその言葉たちからは見えない。「アクティブラーニング」という謎の言葉が流行した時も、あちこちの教育ビジネスでこの言葉が多く使われた。で、アクティブラーニングって何ぞや、と言われたら細かく相手がわかるまで説明できる人は少ない。だってそもそもこれを理解して運用するには、かなりの学びと経験が必要になるんだもの。それを「さ、今日から始めます」はなかなか難しい。それに、この「アクティブラーニング」では目に見えた成果が出にくいい。だから、これを積極的に取り入れるぞ!と掛け声はかけられても、本気でこれに取り組むことは指導者の質や儲けを考えても不可能。
 でも大丈夫。保護者に聞こえがよく説明することは可能。「曖昧で綺麗な言葉のマジック」と、それを言う人の地位や立場で勝手に信じてもらえるのだから。

 なぜそれが言えるか。それは私も教室経営者だから。そのくらいのノウハウは知ってる。知ってるノウハウの使い道が、私の場合は逆。一緒に歩みたい生徒さんを選ぶために使っている。一緒に働きたい人を選ぶために使う。結果をすぐに見たい人とは一緒にやっていけない。じっくりと子どもを愛でるチームを作りたいと思ってるから、「すぐ目に見える結果が欲しい方は、多分うちの教室は合いませんよ」ってやんわりと伝えることが多い。だから私は教育ビジネスの端っこに引っかかってるだけ。ガッツリビジネス向きではないのだ。

 とは言え、私もこの資本主義の世の中で生きていかなければいけない。自分の方針で生徒さんが集まらなかったら、潔く教室は辞めて他の学校や教室で勤めよう、と思っていた。教育ビジネスに本気で食べさせてもらう、という保険をかけていた点では、自分のあざとさは認める。

 でもできる限り自分の軸は貫きたかった。幸い子どもたちをじっくり愛でたい、というご家庭に恵まれて今、温かい教室運営が出来ている。感謝しかない。

病む大人 戸惑う子ども

 教育ビジネスと文科省がタッグを組んで人を煽ったり脅したりするもんだから、保護者は苦しむことになる。文科省はトップダウン。先生たちは上からしたの指令で動く。だから「このままじゃ大学行けないよ」とか、結果で子どもたちや親たちを脅す先生もいる。部活でも「練習を怠ったら次の試合で負ける」って「休むこと=悪」を植え付ける。そこで置き去りになっていく自分の体や心の声を封じ込めて、人に従うマインドを育てていく。自分の体や心が「もう無理」と言っていても、「まだまだいける!」「こんなことでへこたれてどうする!」と外野の声で自分を奮い立たせる。そうしている間に自分の感覚が麻痺していく。自分の声がどんどん小さくなって聞こえなくなっていく。

 今気になっているのは、大人の方の心の病。側で見ていたらすぐにわかる、けれど本人は「大丈夫です」。そのストレスが周りの人に向き、子どもたちに向き、自分自身に向く。教育界も家庭も健康な状態が保てない場所が増えている。倒れながら「私、ちゃんとやってますよね。ちゃんと出来ますから…」って。そんな大人を見ながら、子どもたちが希望を持って健康に育っていけるわけない。そんな判断さえ鈍るほど、みんな疲れてる。でもヘトヘトになって休もうとしたら、そこにまた脅しが入る「このままではいけませんよ」って。

情報偏り時代

 情報化社会とは言え、今私たちに与えられる情報にはものすごい偏りがあるのにお気付きだろうか。不思議と「受験、受験っていうの止めませんか。だって子どもたちには未知の可能性が…」みたいなことを言っておきながら、世間のお受験熱は加熱する一方。我が子こそ選ばれし者にしなくては、という焦りを強く感じる。周りのママ友、塾の勧誘、宣伝文句。それに敏感になりすぎると、その情報ばかりをSNSで拾う。するとAIが良かれと思って、あなたのSNSを「受験情報」で満たす。だから、いかに受かるか。いかに勝つか。それがあなたを支配する。

 一旦そこから降りた世界を見たことがありますか。私が関わっている方の多くが、子どもを数字や人の評価ばかりで見ない。自分がされるように子どもを脅したりしない。情報のないゼロの状態から、目の前の子どもの気持ちに寄り添う。そしてそういう環境にいる子が、いかに自分の持ち味や実力を発揮しているか。幸せそうに笑っているか。それを一人一人例に挙げて紹介したいほど、私は素敵な子どもたちに囲まれている。
 それは私が最初の出会いで「すぐに成果を出さない教室です」と説明した時に「子どもが楽しんでくれたら良いんです」と言われた方々のご家庭。私がお子さんのことを褒めると嬉しそうに「そうなんです〜」ともっと素敵なお話を聞かせてくださる。そんなご家庭。

 「良かれと思って」子どもたちをありのままの姿から変えてしまうことは、私の目には歪んだ愛に見える。何が自分を幸せにするのか、それは自分自身の感覚を研ぎ澄ませて感じること。時々違ったのかな、と思うことがあっても大丈夫。それは「違う」ってことがわかる大事な経験。
 大人の力でそれを一発で当てて当てがうことが、「自分で見つける」「試行錯誤する」という人生最大の楽しみや味わい、学びを奪っているのだ。
それに気付いた人から、親や先生自身もお子さんも生徒さんも、自分の声を聴いて自分を幸せに出来るんだと思う。

 知ることは、大事。
立ち止まってもう少し深く掘り進んでみることはもっと大事。
 

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