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 今年はキュウリの苗が二度、病気と虫にやられた。去年は大豊作で食べきれない程だったのに、今年は二度も。三度目は種を撒くことにした。5つの芽が出た。ある程度育った時に、虫がたくさんつくようになった。
いろいろ調べて、換気扇カバーの不織布で覆ってみた。虫に食われた葉がレースみたいになって瀕死状態だった苗たちは数日後、不織布をググッと持ち上げてそこから顔を出した。彼らは青々とたくさんの葉をつけて「見て見て〜!」と言っている様。可愛い。

 オクラの花を見てホクホクしながら、ふと小学生の時の私はこんなに植物を育てることに楽しさを見出していたかな、と思った。
 否。多くのガーデニング愛好者が年配者であるように、きっとこの趣味は人生のいろいろ経験した後、癒しを自然とのふれあいの中に見つけた人たちが辿り着くオアシス。そんな気がする。子どもの間は他にすることがたくさんあるし、毎日忘れず水をやることや虫から植物を守ること、土を作ることの様な活動は地味過ぎる気がする。

 そこで考えた。私が今こうして自分から欲して土に触れている、この行動は今回が初回だったらきっともっとハードルが高かったはずだ。でもこうして興味を持って自分で調べたり試行錯誤してじっくり楽しむことができている。それは遡ること40年前、小学生の時にあさがおの鉢を一人一つずつ渡されて嫌々育てたあの思い出、栽培委員会の活動で夏休みに小学校に行って学校の草花に面倒くさがりながら水をやったあの思い出。
スティーブ・ジョブズ的に言うとあの一点一点が細く長い線となって今のこの一点に繋がっていると言っても過言でもない。あの時に嫌々の私に丁寧に水やりの仕方や苗の植え方を教えてくれた先生はもうこの世にはいないけれど、あの経験があっての今だと思える。

 あぁ、これが教育だな、と思った。あの時先生はいつ咲くともわからない種を私たちに手渡してくれた。その多くの種は途中で無くすかも知れないし、枯れてしまうかも知れない。でもその中の一つでも花を咲かせたらいいな、そんな希望を一緒に手渡してくれたんだと思う。先生は決して私に「早く、目の前で花を咲かせて見せろ」なんて言わなかった。でも、こうして先生亡き後、私はその種から出てきた綺麗な花で人生の豊かさを味わっている。教育って「種を手渡すこと」なんだと思う。いつか花が咲くといいな、と想いをこめて。

 それは今の私の違和感に繋がる。今私の出会う多くの先生、コーチ、親たちが子どもに種を渡すや否や、その花を見せろと子どもたちに言う。そして根が腐る程の水や肥料を与え、強制的に日の光に当て、無理矢理咲かせた花を見て満足する。

まるでその花が大人の目を楽しませるためのものであるかのように。

 そんな成果主義が横行している今でも、私はひっそりと種を子どもたちに手渡す。この種がいつかあなたの目を、心を癒し、あなたの人生を潤す花を咲かせます様に。

 私はね、昔受け取った種で自分の花を咲かせて愛でようと思ってる。歳を重ねてしまったけれど、大丈夫。たくさんもらったから。あの種を静かに撒いて、自分の楽しみにしています。アラフィフの今でも学ぶこと、知ることが楽しくてたまらない。

 大人の皆さん、まだまだ時間はあります。子どもたちに種を手渡しながら、自分の花を咲かせましょう。ね。

 

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