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外に出て 心を自由に

 最近自分の教室の子どもたちによく言うことがある。
「自分の中に興味が湧いて、チャンスがあったら絶対に海外に少し長く行って欲しい」ということ。少し長く、というのは観光というよりは少しじっくり人を観察できるくらいの余裕がある期間、という意味。

 今までよく英語の先生の知り合いが「海外に言って英語を学んで欲しい」と言っているのを聞いて、私は100%賛成ではないな、と薄く感じていた。英語を学ぶなら今だったら国内でも十分だし、それのためにわざわざ海外に行っておいで、とは言えない。少なくとも不特定の生徒全員にそれを伝えても説得力に欠ける様な気がしていた。

 海外に行っておくべきだとは強く思っているのは同じなのだけれど、それがなぜだか自分でうまく説明できないのがもどかしかった。でも最近になって明確な答えが見えたので、それを伝えている。

 身近なことで言えば、ニュージーランドの制服のある学校では一応半袖、ベスト、スカート、パンツ、ジャケット…とあるけれど、自分で「今日は暑い」と思ったらその中から半袖を着たり、同じ日でも「寒い」と思う人はベストやジャケットを着ると、現地の高校生から聞いた。
 オーストラリアのある小学校では1年生のクラスには机と椅子以外にもマットやクッション、ソファが置いてあって、寝そべって授業を受ける子もいれば、ソファの上にいる子もいる。先生曰く「え?6歳で全員が全員、椅子に座って〜って出来るわけないじゃん」ということだった。
 授業の合間にスナックタイムがある学校もあるし、ビュッフェ形式の給食がある国もある。

 それを見て子どもたちはどう思うだろうか、それだけ話すと「そっちの方がいい」と言うだろう。でも実際現地に身を置いてその様子を見ると、しっくりこない人もいるし、しっくりこない場面もある。
 海外を見るということイコール海外の方が良いと思うことだと言う大人も多いけれど、そういう方々の多くが、海外に住んだ経験を持っていない。

 現に私は1年だけれどニュージーランドに住んだ。でも私自身は日本を選んで日本に住んでいる。海外に住んで人の生活や日本との違いを見た時、私たちは両方の良い部分と合わない部分をまんべんなく感じるものだ。だから、海外に暮らして初めて日本の良さに気付いたり、自由に見えた国の秩序などの問題点に気付いたりもする。その逆もある。

 私が子どもたちに話すのは、一つしか知らないよりもたくさん知って、その中から自分も選べると知るのが大切だということ。選択肢があると知るだけで、心が自由になる。特に日本の小学校、中学校…はルールが多く「こうあるべき」「普通はこうする」で視野が極端に狭くなり、入ってくる情報も何かのバイアスがかかって少なくなってくる。幸せの定義が決められてしまうのを感じる。
 そうではなくて、いろいろな方法で自分の幸せを見つける人たちに触れ、自分にとっての幸せってなんだろうな、自分は何を欲しているのだろう、なんて考えを巡らす余裕が若い時期には必要なんじゃないかな、って思う。幸い私の若い頃1990年代はもっと時間があったし余裕があった。私は暇だった高校時代にアメリカのコラムニストの本に出会って、それを何度も読んで自分の日常と全く違う日常を過ごす海外の生活に憧れ、大人になって実現した。

 ニュージーランドで時々見かける裸足で街を歩く人。最初はギョッとしたが、その人たちを見ながら「そもそもなぜ自分は常に靴やサンダルを履いているのだろう」と考えた。自分も裸足で歩く日を作ってみた。
 そして今私は外では靴を履く日常を選んでいる。でも心は自由だ。「靴を履きたくないと思えば、履かなくったって良い世界もある」って知っているだけで、自由。今靴を履いて生活しているのは、私のための私の選択。

 知らない間に「当たり前」になってしまっていることに疑問を抱くことこそ、大切なんじゃないかな。たとえ行動は変わらなくても、心の中では「自分が選んだ人生を踏みしめている」という実感がある。

 「知る」「感じる」「選ぶ」ということは、今の日本ではなかなか得るのが難しい経験になっている。だからこそ、私は子どもたちにそれを伝えたいと思うのだろう。自分に当てはまるかわからない誰かにとっての最短距離を知ることよりも、自分だけの人生を試行錯誤しながら歩む楽しさを伝えたい。

 英語はきっとその目的ではなく、手段になり得るだろう。

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