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夢に大義名分は要らない

 子どもに夢を語らせてそこから進路を探る、という教育の一つの方法について以前書いたことがあるが、先日友人との語らいの中で更に面白いことに気付いたので、記しておく。

自分のために始めたこと

 友人が私に「なぜそんなに発信し続けるのか」と尋ねた。私はそこで一言「伝えたいことがあるからかな。」と答えてみた。
以前の私ならばそれで良しとするのだろうが、なんだかその小さな違和感が気になって訂正した。
「いや、多分自分の頭の中で考えたことがずっとここにあるのが気持ち悪くて、書いちゃうんだと思う。」

しっくりきた。

 続けて私はこう言った。
「気持ち悪いからただ書いて、頭の中を整理しようとしてたんだけどね、最初は。でもその内にその文章を見てくれた人から『自分が言葉に出来ない思いを言葉にしてくれて、ありがとう』ってメッセージが届いたりすることが増えてきたの。『救われる』って言われたり『励まされる』って言われたり。自分では、ただの自分のための行動だったんだけど、それが人に何かしら良い影響を与えてるって知って驚いた。嬉しかった。」

 そこで、なぜ私が「人のため」という言葉を最初に答えてしまったのか、考えてみた。

空気に支配される

 私たちは子どもの頃言葉を使える様になると、言って良いこと、悪いことなんて気にせずに言葉を発していた。思わぬ発言で家族が慌てた、という経験がある方も多いだろう。私は電車の中で自分の目の前で立ってタバコを吸っていた女性を指差して、母に「なんでこの人女の人なのにタバコ吸ってるの?」と尋ねて慌てて母がその方に謝罪していたことをいつも思い出す。当時の私の周りにはタバコを吸うのは父と親戚のおじさんくらいだったので、勝手に頭の中にタバコは男性が吸うものだとインプットされていたのだろう。その慌てた母を見て、私はタバコは男性が吸うものと決まっている訳ではないことを知った。その女性は笑っていた。私はそうやって人に対しての失礼や自分の知らない世界を学んできたのだと思う。

 その順番がいつしか逆転していく。親が、先生が自分が失敗する前に答えを教えてくれる様になるのだ。「こういう時はこうしなさい。こう言った方が良い」という言葉だけでなく、正解を出すと喜び、不正解を出すとあからさまに嫌な空気が漂う。そうやって私たちは空気を読み取りながら地雷を踏まない様にする術を身につける。失敗からではなく、空気を読むことから学んでいくのだ。

夢をジャッジされる

 中でも大きいのが「自分の夢や希望を語る」場面での空気の影響だ。今度の集会で何をして遊ぼうか、部活動の取り組みでしたいことを言ってみよう、将来の夢を語ろう」一見学校では子どもたちの意見を聞く機会を与えてくれている様に見える。でも、その時に正直に自分のアイデアを話す子がどんな風になるか、みなさん想像できるだろう。
 「お金持ちになりたい」「おかし屋さんになりたい」「ユーチューバーになりたい」「サッカー選手に」「お笑い芸人に」
大人がどんな顔をして、何というか、わかるだろう。でも自分が大人になって同じことをしていることに気付いているだろうか。

 子どもたちは地雷を踏まない様に、大人を喜ばせるために、上手に上手に語り始める。「困っている人を救うために」をつければ、ある程度のことは通るということを学ぶ。そして、その技術は大人になってもずっと語る時の癖になっていて、私の様に人生半ばのこの年で気づくのだ。
「人のために」
本当にそう思ってるのか、私。もう頑張らなくていいんだよ。

好きなことの力

 私は自分の好きなことを語る人の表情や声色が好きだ。そこからは明るいものや幸せな雰囲気しか感じない。その内容が全く私に興味のないものであっても、その幸せな顔を見たくて人の話をもっと聴きたいと思う。

 大人になっても「好きなこと」を子どもみたいに語ることができる人は素敵だ。どこかで切り替えたのか、ずっと学校時代は変わり者だったのか。でも最終的に人生の中に幸せを見いだせる人は幸せだ。そしてそういう人の多くは辛い経験をきっかけに自分を切り替えていることも、話していてわかる。空気を読みながら大人に言われる通りにやってきたことの違和感や間違いに気づく経験をした人だ。後者はきっと学校生活の中でなんとなく違和感を持って生きていたことだろう。いずれにしても、空気を読む技術を習得することを拒否したか、その技術を捨てた人は人生の幸せを見つけている気がする。

 昔どこかで見かけた言葉「苦労は嫌なことをしている時に感じるもの。好きなことをしている時は苦労を苦労と感じない」というのは本当によく言い当てていると思う。youtubeを見ていると、細かい手作業で何かを作り上げていく人の動画を目にすることがある。じっくりみて感心しながら、私にとってこんなに細かいパーツを組み立てていくのは、頼まれてもしたくないこと。きっと大変な「苦労」になるだろう。
しかしこの人にとって、これは「喜び」なのだ。

 「好き」ってそういうことだし、それぞれ違う「好き」を持っているからいいんだと改めて思う。子どもたちが無意味そうに見えることを一生懸命していることは、見守っていた方が良い。

「好き」って言おう、言わせよう

 子どもに夢を語らせる前に、自分たちの希望を空気を使って伝えるまえに、子どもたちを自由に遊ばせよう。焦らず、慌てず、ただいろいろなものに触れさせてあげたらよい。ある子は昆虫が怖くて逃げ出し、砂のお城を作り始め、ある子は一日中虫を見つめているだろう。ある子は滑り台の上から飛行機を眺め、ある子はボールを追いかける。そんな経験をたくさんさせてあげよう。「見て!」って言われたら見てあげよう。話を聞こう。
 その話の中に子どもたちの「好き」が詰まっている。その「好き」を受け止めよう。

 慌てずとも子どもたちは自分の「好き」を見つけ、自分がしたいことに没頭する。その人は誰のためでもなく、自分のためにただ「好き」であり続ける。でもその「好き」がいつか人を喜ばせる何かに繋がった時、それはその人の生業になるかも知れないし、夢を紡ぐ一本の糸になるのかも知れない。

 子どもたちは誰かの希望を叶えるために生きているのではなく、自分の人生を幸せに全うするために生きている。そしてその幸せは繋がっていくような仕組みになっていると信じたい。
 人の浅い知恵や経験で、その素敵な仕組みを壊さない様に。自分を幸せにしてあげられる人を育てていきたいし、私も自分の心の声が聴こえるくらいゆっくりと歩んでいきたい。

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