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英語セラピー

 英語を指導している中で感じるのは、日本人が英語を話せない理由は技術的なものではなく、話せる内容がないことかも知れんということだ。

英検の作文指導

 英語教室をしていると、「出来るだけ早い時期に英検を取らせなきゃ」と思っているおうちの方がいることに驚くことが多々ある。私の理想では英検は英語をある程度学んできた人が自分にどのくらい力があるか、を確かめるもの。そうであって欲しい。
 あったら何かお得だからどうにかして取っておきたい、というものではない。

 足し算が出来なくても2年生になり、掛け算が出来なくても3年生になれる…そんな教育システムの中で、力はついていないけれど資格さえ手に入れれば次に進める、という勘違いが横行していることに悲しくなることが多々ある。

 そんな中、英検3級から導入されている「作文」はその明暗が分かれるものの一つであると思う。他の部分は自主学習でなんとかなるけれど、作文に関しては誰かに見てもらわないと不安もある。そんなことで私は作文添削をすることが多いのだが、そこでぶち当たる壁が二つある。
 一つは中身がスッカスカだけど、文法も語彙も最低限正しいから合格するであろうという場合。もう一つは言いたいことがものすごくありそうだけど、それを表現するには文法や語彙が追いついていないという場合。

 見ていて楽しいのは後者なのだが、合格するのは前者。だから私は後者のサポートに力を入れる。なんとかしてシンプルな形、自分が自信を持って書ける英語で表現出来ないかと一緒に考える。この作業は、かなり楽しい。
そしてこの作業を経た子どもたちは、そこからグンと伸びていく。きっと将来海外の若者たちと一緒に働くことになっても十分な英語力を発揮していくだろう。

 私が心配しているのは、むしろ前者。楽々合格するはず。ただ、その質問にその答えかい?というかなり幼稚な内容だったり、あまりにも一般ウケしそうな内容だったり。子どもらしくない場合が多い。恐らくどこかで「必ず受かる」近道を教えられている。
 この子たちは、将来自分の意見を求められた時にそれを十分言い表す言葉や内容、自信を持たないまま成長する可能性がある。そしてこの力は一朝一夕に身につくものではないので、かなり苦労することが想像できる。

思考の習慣

 「どうしたら成績が上がりますか」という質問はあちこちで見かけるが、「どうしたら自分の意見を持って人に伝えられる様になりますか」という質問はあまり見かけない。親や先生自身にその習慣がないから重要性を感じないか、自分の意見を持つことが危険だと思っているのか、どちらかわからないが、思考停止が習慣から根付く様に思考することも習慣で当たり前になっていく。

 テレビや雑誌で世界の素晴らしい科学者や技術者などの生い立ちが取り上げられる。結構な割合で「学校では変わり者だった」それと同じくらい「家庭(または他の場所)に会話の習慣があった」というのが上がってくる。この二つは相関している。つまり日本という国では「自分で考えたことを人に話す人は変わった人」なのだ。これは筆者も同じなので強く感じている。
自分の意見を話すと「怖い」とか「そこまで深く考えんでも」と言われたりすることが多い。特に子どもの頃は何も考えないフリをしている方が楽だった。何も考えずに、先生が見本にしたことに近いことを言っていればOKで、大体は大人が決めたことをその通りにする子が優秀だと言われていた。そしてみんな思考するのを止めていった。

英語と日本語を行ったり来たり

 大学を卒業して海外を旅する様になった。同じく大学を卒業したタイミングで世界を旅する若者たちと交わり語らう機会が増えた。全くしらない言葉の国から来た人たちも英語があれば楽しく語らうことが出来た。私たちは身の上話をし、それと同じ様に自分の国のこと、良いことや問題点を紹介し合った。旅の途中で見てきたことやそれをどう捉えたか、そんなことも語り合うから話は尽きない。全く知らない国から来てさっき知り合った人たちが、日本で長い間付き合っている友人よりも自分のことをよく知っているなんて、面白いと思った。

 日本に戻って英語教育に携わった。英語を教える中で日本で英語教育が効果を発揮しない理由がわかった気がした。英語を話す時にもう少し深く聞こうとすると、それ以上話が進まないことが多かった。首を傾げ、とても迷惑そうな顔をされることが多い。特に大人。意見を聞かれることに慣れていない。意見を聞かれても自分の中から言葉が出てこないことと直面するのが辛いのか、深い質問は強烈に嫌がられた。それは時に「プライバシーが...」という言葉で片付けられてしまうが、そもそも日本語と英語の使われ方が違うからそうなるんだ、ということに気付いた。

 日本語会話を分類してみると、命令や頼み事、連絡事項、情報共有、大体それが日本語会話の大部分を占めているだろう。だから、それ以上の情報に踏み込むとプライバシーの侵害になってしまう可能性がある。なんとなく統一された団体で構成されているから、皆まで言わなくてもわかるだろ、という間柄。だから意思の疎通は言葉よりも雰囲気。
 では英語はどうだろう。英語は知らない土地から来た人で構成された国で多く使われているため、相手を知る、または相手に自分のことを伝えるという役割がメインだと思われる。英語話者にももちろんプライバシーを守る感覚はあるだろうが、それ以上に相手を知り自分のことを伝えるという目的の中では日本人の思うプライバシーとはちょっと違う意味合いのものだと思う。

 英語を学ぶということは、その役割から学ぶ必要がある、ということ。
即ち、自分を人に知ってもらう以上は自分が自分を知る必要があるということ。そこで思考停止になって、自分が意見を言えないことを恥じている様では、英語という道具を身につけても使えないのは当然なことだ。

英語セラピー

 私は主に教室で子どもたちの英語指導にあたっている。そこでまずすることは、自分のことを話すこと。人の話を聴くこと。その大切さを伝え続ける。まずは日本語のおしゃべり。人の話を聴くベースを作る。
一人一人が話を聴く姿勢を身につければ、ここではみんなが話を聴いてくれるという安心感が湧いてくる。スタートはそこから。「自分のこと、自分の心に浮かぶことを人に話してもいいんだ」というベースがあれば、人は話し出す。話したいことが浮かんだら、そこで初めて「何語で話す?」
 そこで使える道具を見せ、一緒に使い方を学び練習する。それが英会話で、私の英語セラピーレッスン。

 大人の方は「話していいんだ」までの道のりが長い。ゆっくりゆっくりと氷を溶かす様に何度も「大丈夫」を伝えていく。英語を指導しながら私たちはいかに「話してきたか」「話してこなかったか」を考える。
 
 日本語が連絡メインなのは、私たちのベースが同じだとみなされてきたから。わざわざ伝えずともわかってくれるだろう、という安心感。でも世の中が多様化を求めれば求める程、その「わかってくれるだろう」が届かない場面も増え、誰かの重圧になり、知らずの内に誰かを傷つけていく。
 日本という国が今までのことも大切にしながら次に繋いでいくには、「多様化」は避けては通れない。互いに伝え合うことが始まりだった英語の世界の知恵や習慣を英語を通して学んでいくことは、これからの日本にとって大きな強みとなっていくと思う。英語というツールそのものではなく、それを使う広い視野を持つ人たちがこの国を柔らかくしていくことだろう。


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