推敲(古典ノベライズ前編)
あたしは自宅の最寄り駅で電車を待つ寸暇をも惜しみ、手元のスマ-トフォン端末で、推しのライブ映像を見ていた。
人類の全歴史、洋の東西、性別、なんなら犬や猫や馬といった他の種族、あるいはイラストもしくは小説の中だけの存在、はたまたアニメやCG、神話の中の、そのどの存在よりも理想的な男性。
それがあたしの推す地下アイドルの【カンダユウキ】君、通称「ゆーくん」だ。
詳細な形容はしない。
≪美≫そのものは形を持たないイメージだから、人間の言葉では絶対に説明しきれないの。
電車に乗れば、外では猛烈な音で強雨が車窓を叩いていた。
今日は推しが推す高級食パンを食べに、麻布十番へと向かうんだ。
曰く、「食べ歩きしたくなるほどおいしい食パン」と。
結構前に「ゆーくん」がSNSで紹介していたパン屋なんだけど、あたしは聞けばすぐに飛びつくような軽いニワカではない(これは以前SNSで発信したらビックリするほどネットで叩かれた)。
……大丈夫、もうやらない。
自分に言い聞かせる。
かつて推しがあまりに尊すぎて、新宿にある所属事務所の門を物理的に叩いて壊し、警察のお世話になった。
感情の抑制が苦手なの。
事件以後、周囲にはストーカー呼ばわりをされているけど、ソレがナニ?
むしろあたしは模範的なファンなんだと、自任しているくらいなのに。
ネットオークションで買い叩かれそうになっている「ゆーくん」のグッズは全て買いあさり、今度は逆に売りさばいた。
儲けは無い。
布教活動だもん。
いま地下アイドル界を照らしている「ゆーくん」の魅力は、ゆくゆくは、あまねく社会を照らすはずなんだ。
だからネットオークションで「ゆーくん」にまつわるグッズをくまなく買い過ぎて、財布の底を叩いたって、そんなのゼンゼン気になんない。
いつだって、ネットで「ゆーくん」のグッズを見つけるたびに、キーボードを叩くあたしの指には力が入るんだわ。
雨が窓を叩く私鉄から大江戸線に乗り換え、地下を行く。
もともと宝塚歌劇団にドはまりしていたあたしの祖母の影響なのか、生まれながらにして追っかけの技術を我が【カトウ】家の血脈として体に叩き込まれていたのだと思う。
その祖母に、あたしのお気に入りの「ゆーくん」の写真を見せたとき。
「はー、白粉(おしろい)を叩いたような綺麗な子だね。え、しかも男性なの?」
あたしはその世代や性別を越えた称賛の声を聞き、推しを愛する者として「ありがとう」と深く頭を下げたんだっけ。
ともあれあたしは今日の目的の、推しである「ゆーくん」の推す食パンを求め、大江戸線の改札を出て、麻布十番商店街へと向かうのだった。
大江戸線の地下から出れば、麻布十番商店街は、すっかり晴れわたっていて清々しい。
スマホの地図を片手に、ふらふらと、「ゆーくん」が推す目的のパン屋を捜す。
GPSって近くまで来ても、そこからは結局自力で捜すことになるのよね。
入口の反対側の路地に連れてこられて、目当てのお店が見つからないなんてザラにあるし。
キョロつきながら、店を捜して、十字の路地を折れた、そのときのことだった。
(明日へ続く)
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