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「今」を他者に渡さない、だって自分の人生だから

過去の思い出が、どれ程色鮮やかに蘇っても、

未来の不安や希望が、如何にリアリティを帯びていても、

過去や未来は私達の思考が創り出す想念です。

私達が触れる事が出来るのは、過去でも未来でも無く「今」だけです。

今、の連なりが、人生、と言えます。

心地よい人生を生きたい、と思うならば、心地よい今、を生きるしかありません。

心地よい今、を生きるには、心は自分のもの、でなくてはなりません。

「自分の心なんだから自分のものに決まってるでしょ。」とお思いでしょうか?

他人の目が気になる、
あの人にどう思われているだろう、
この人に嫌われていないだろうか、
目の前の人に好感をもたれたい、
受け容れられたい、尊敬されたい、一目置かれたい、
親が、友人が、妻が、夫が、気になって仕方が無い、

そういった想いに捕まってしまう事は無いでしょうか?

他者が気になって仕方が無い時は、心は他者のものになっています。

心を他者に明け渡している、のです。

心を他者に明け渡してしまうと、自分の今、を生きる事が出来ません。

その最たるものが、機能不全家庭に育った人、です。

生まれた時から、親の顔色を伺い、親の感情を察知し、親の要求に応える為に、自分の感情を殺し続けます。

生まれた時から、ずっとそうやって生きざるを得ない為、その人は自分の今を生きられず、即ち自分の人生を失います。

機能不全家庭に育ったか否かを脇に置いても、心を他者に明け渡し易い人は居ます。

人前に出ると舞い上がってしまう人、
極度の人見知り、度の過ぎた恐妻家、なども、心を他者に明け渡し易い人と言えます。

特に、心を他者に明け渡し易い、とまではいかなくても、
時に、明け渡してしまう局面は、誰にも有るでしょう。

人が、他者に心を明け渡してしまう時は、必ず意識のフォーカスが、人、に向いています。

たとえば、誰かに文句を言われた、として、

なんて物の言い方だ!
失礼なやつだ!
と、腹が立つのは、意識のフォーカスが、人、に向いているからです。

意識のフォーカスが、文句を言われている、という、出来事、に向いていれば、

その文句に正当性は有るか、
相手との意思疎通に齟齬は無いか、
言われた事にどう返すか、
といった事に集中出来ます。

しかし、意識のフォーカスが、人、に向いていると、
文句を言った人を、好きか嫌いか、
自分と比べて、優れているか劣っているか、上か下か、
どちらが正しいか、間違っているか、
どうしてくれようか、
どうやり返してやろうか、
思い知らせてやりたい、
ギャフンと言わせてやる、

と、問題解決の方法を模索するよりも、相手との関係性ばかりに気を取られ、更には、怒りなどの感情に呑まれます。

そうなると、心は相手の事でいっぱいになります。
つまり、心を他者に明け渡す事になります。

意識のフォーカスを人に向けると、フォーカスの当たった人は、心の中で存在感を増します。

意識のフォーカスが、出来事に向いていると、心の中に置ける相手の存在感は、出来事のいち登場人物でしかありません。

クルマを運転中に、危険な割り込みをされて、間一髪で接触を免れたとして、

出来事にフォーカスすれば、
危なかった、無事で良かった、
ですが、

危険な割り込みをした運転手にフォーカスすれば、
ふざけるな!どうしてくれようか!になってしまいます。


私達が自由に制御出来るのは、自分の心だけ、です。

他者の心は制御不能です。

ならば、意識のフォーカスは極力、出来事に向けて、心を他者に明け渡す事無く、自分の制御下に置く事は大切だと考えます。


ともすれば、人の意識のフォーカスは、人に向きがちです。

簡単では無いからこそ、努めて意識のフォーカスを出来事に向ける癖付けが大切だと思うのです。

全部とは言いませんが、ネガティブな感情に支配される時、殆どの場合が意識のフォーカスは人に向けられています。


心地よい人生を望むなら、心地よい今、を創り出す事に注力します。

心地よい今、を創り出すには、心は自分のもの、である事が絶対条件です。


意識のフォーカスを人に向けてしまう癖がついている人は実に多いと感じています。

癖は心の折り目です。
逆向きに折ることは、いつでも出来るのです。

心地よい人生を、

軽やかに生きるには、

意識のフォーカスは、

出来事、に向けます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム











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