切り抜き脳と論破思考
決して根性論では無いのですが、
生きづらさを手放す時に必要なものを一つ挙げよ、と言われたなら、
私は、本人の決断、と答えます。
何故ならば、生きづらさを背負ってしまった経緯や原因はどうあれ、
背負ってしまった生きづらさを手放したいと切望しながらも、しがみついているのは他でも無い、本人だからです。
生きづらい人は、ずっと生きづらい世界しか知らずに生きて来た訳です。
どんなに苦しくても、本人にとっては言わば、慣れ親しんだ世界、なのです。
手放すことを切望しながらも、同時にしがみついているのです。
思いは二つに裂けています。
つまり、心はいつも葛藤していて、それが生きづらさそのもの、と言えます。
その、しがみつき、を解くには、どうしても本人が、慣れ親しんだものを手放す、決断、が必要不可欠だと思っています。
逆に言うなら必要なのは、決断だけ、です。
言う程簡単な事ではありませんが、決断、する事が出来たなら、心療内科のドクターも、心理カウンセラーも要らないのです。
人生のどん底だ、と思っている段階から、もう一段下の段階に陥って、開き直って初めて、生きづらさを手放す人も居ます。
いわゆる、底打ち体験、を経て気づきに至る、ということですが、
それ程、生きづらい人にとっては、慣れ親しんだ生きづらさを振り切る決断は容易ではありません。
絶対的に必要なのは、決断だけ、と言えますが、
有れば、必ず助けになるものも有ります。
それは、言葉を理解する力、です。
違う言い方をすれば、言葉を理解しようとする姿勢、であり、
言葉を理解しようとする習慣、とも言い換えられます。
心には形がありませんから、触って形を確かめたり、持って重さを測ったりも出来ない訳で、
心に向き合う時には、必ず一旦、言葉に落とし込む必要があります。
勿論、最終的には、決断する事が出来れば、生きづらさは必ず手放せると確信していますが、
言葉を理解しようという姿勢、言葉を理解しようとする習慣は、大いに助けになります。
その姿勢と習慣が、言葉を理解する能力になるのです。
逆説的ですが生きづらい人が、生きづらさを手放した後、
言葉の理解力、文章の読解力、などが飛躍的に向上する事すら有るのは、形の無い、心、を紐解く事、解放する事と、言葉の理解が密接に関係する証明だと感じています。
その意味で、言葉や文章を理解することを阻害していると感じている事柄が幾つか有ります。
たとえば、切り抜き動画や、要約文だけが情報のインプットの手段になっている人の理解のパターンは、どうしても安直になり易い様に感じています。
私はこれを、切り抜き脳、と呼んでいるのですが、
つまり、動画なら動画、文章なら文章の背景を理解する力が著しく低くなる傾向が見受けられます。
話し手、書き手の意図を推察する想像力、
思いを汲み取る、言わば、思いやり、にも似た、慮る力、の様なものが欠落している人が多く居る様に感じています。
私自身もショート動画や、要約文には触れる機会は多いですし、忙しくしている現代人は、どうしても効率重視の手軽なインプットになりがちですが、
それが考え方の主要なパターンになるのはとても危険だと感じています。
何万人、何十万人もの登録者を抱えるインフルエンサーと呼ばれるユーチューバーが、
おそらく切り抜き動画から得たであろう情報から判断し、誰かを批難する動画をUPして、
其処に寄せられたコメントを見てみると、UPしたユーチューバーを、よく言った、と礼賛し、一緒になって、誹謗中傷コメを寄せている視聴者の多さに、薄ら寒いものすら感じます。
特に、討論系の長尺動画等は、切り取り方や編集で実際と異なった印象に幾らでも、なってしまいます。
実際、悪意や何らかの意図を持って、印象操作する為の切り抜き動画は沢山有る訳です。
木を見て森を見ず、と言いますが、切り取り動画は、木だけを見せますし、木の見せ方で、森を悪いものに見せる事は幾らでも出来ます。
想像力の欠如、思いやる気持ちが無い安直さ、は、生きることにプラスに作用する事は、先ず無い、と思うのです。
切り取り脳、に、論破思考、が加わったらば、もう手のつけようがありません。
論破と言えば、ひろゆき氏が思い浮かびますが、私はあれは、一種の話芸であり、エンタメだと思っています。
それを、実生活に持ち込む人は、とても多い、と感じています。
論破思考と切り取り脳とは親和性があって、語り手の背景を無視する事は、
ひたすら、論理の綻びを探すのに適しています。
話す技術の無い人の、論破、は単なる上げ足とりに終始しがちです。
切り取り脳と論破思考には、相手の背景を慮る、ということが決定的に欠けている様に思います。
時と場合によっては、それが最適、という局面も有るとは、思いますが、
生きる上で、基本の心の構えは、相手を解かろうとすること、だと思うのです。
特に、心のこと、を考える時、目を向けるのは、心の機微です。
深度が深い、心の奥底を探ります。
そう言った意味では、水面の表層の泡をすくい取る様な思考との相性は、全く合わない様に思います。
生きづらさを手放す時、最重要事項は、決断、です。
決断する事が出来れば、生きづらさは必ず手放す事が出来ると思っています。
その決断を助けるのが、言葉の裏側の思いをすくい取ろうとする構えであり、
文章の余白から何かを感じ取る感性だと思うのです。
心は形が無いだけに、
言葉に落とし込んで、初めて、
その姿を現します。
心と言葉は切り離せない、
そう思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム