機能不全家庭に嘘と秘密がある理由
自分が抱える「生きづらさ」に気が付いて、その「生きづらさ」を手放したい、と願い、自分と向き合い始めます。
「生きづらさ」の原因は、生きる中でいろいろあったにしろ掘り進めると、おそらく幼少期の親子関係に行き着く事が大半だと思っています。
かつて虐待、被虐待の関係性にあった親子は、そこに虐待があった、という事に気が付いていない事がほとんどです。
私は「虐待に気が付いていない」という事には、どうしても注釈を入れたくなります。
虐待があった機能不全家庭には、家庭内だけの秘密が付き物です。
親から「他人に言ったら駄目だよ」と言葉で言い含められる事もあれば、
言葉は無くて、子供が感じる家庭内の空気、雰囲気によって、「これは他所で喋っちゃ駄目なんだ」と感じ取る場合もあります。
非言語の圧です。
いずれにしても、機能不全家庭には他言無用の秘密があります。
秘密が有る、という事は、機能不全家庭の構成員は、家庭内の出来事を隠したい、と感じている、という事です。
隠したいのは、後ろめたいからです。
隠したい、後ろめたい秘密の事柄には、そこはかとなく虐待の匂いがするのです。
その匂いに、親も子も、心の奥の奥では、気が付いているから、他言無用なのだと思います。
心の奥の奥、とは、もはや意識と無意識の狭間の領域だと思っています。
だから、隠すと言うよりは、オートマチックな封印のシステムの様なもの、と言えるかも知れません。
親もかつて、機能不全家庭に生まれ育ち、その親との間に、沢山の嘘や秘密がありながら、
半ばオートマチックに見て見ぬフリをする仕組みに組み込まれて生きて来たのです。
何故、機能不全家庭には、嘘や秘密があり、親も子も、そこから目を背けるのか、それは、
機能不全家庭は、親が抱える「生きづらさ」から目を背ける事が最優先される場所だからです。
本来、家庭は親も子も、そこに居れば安心出来る場所なのです。
家庭内には、諍いも起これば、苦労もあります。
しかし、根底にあるのは、安心感です。
安心感に支えられた上での諍いや苦労は、家庭そのものを脅かす脅威ではありません。
安心感が支えるからこそ、
親にとっては、守るべき場所であると共に、守られる場所でもあり、苦労、困難はあっても、心の拠り所です。
そんな場所であるから、
子供にとっては、巣立ちの時までの、安心、安全のとまり木、たり得るのだと思います。
そんな暖かな家庭の決まりごとは、一言で表せば【尊重】ではないでしょうか。
機能不全家庭の親は親自身が、かつて機能不全家庭に育ち、尊重される体験が無いままに親となった為、
言葉としては知っていても、本当の意味で尊重することが判りません。
出来ないのです。
それは、とりも直さず、自分の中に尊重されることで育まれる筈の安心感が欠け落ちており、
代わりに心の中に有るのは、自分は尊重される存在では無い、という無価値感です。
人にとっては無価値である、という事は最も避けたい、自分に対する感じ方と言えます。
その無価値感を抱えたまま、親になった時、何があっても自分を慕う幼い存在が、
絶対服従、無抵抗の何をしても構わない存在として認識されてしまうのです。
その親は、尊重を知りません。
その結果、親は子を、自分が無価値感から目を逸らす為の道具にしてしまいます。
ある時は、子供の存在を貶めて、相対的に自分の価値が上がった様に錯覚し、
ある時は、子供の自主性を許さず、過保護、過干渉という貶め方で、間接的に子に無力感をすり込み、相対的に自分の価値を上げようとします。
こういった事は精神的虐待に他ならないのですが、
その親に確たる自覚は有りません。
ただ、先に述べた様に、心の奥底では、後ろめたく感じています。
意識と無意識、自覚と無自覚の狭間の領域で、です。
意識と無意識、自覚と無自覚の狭間の後ろめたさを、
覆い隠す為に、機能不全家庭には、嘘と秘密があるのです。
厄介なのは、後ろめたさも、それを覆い隠すことさえも、意識と無意識の狭間の出来事なのです。
機能不全家庭の親は、良い親だと思い込んでいるのに、心の奥底に後ろめたさを隠し持っています。
本当は親としての自信が有りません。
後ろめたさが拭えないのです。
機能不全家庭の子供は、人並み以上に愛されていると思い込んでいるのに、愛されていると思う度に、心の奥がチクッと痛みます。
心の奥では確信出来ていません。
愛に疑いがあるのです。
人は嘘がある時、辻褄を合わせます。
秘密がバレそうになると、躍起になって取り繕います。
機能不全家庭には、安心も安全も有りません。
有るのは、不安と危険です。
しかし、不安も危険も意識と無意識の狭間にあって、
それを覆い隠すことさえも、嘘なのか本当なのか、分からないのです。
機能不全家庭は、そんな芯の無い、フワフワとした不安定な場所なのです。
安心、安全なとまり木にも、
巣立ちの日までの暖かな巣にも、
なり得ない場所です。
機能不全家庭に生まれた人が、その事を認める事には、激しい痛みを伴います。
今はまだ、生きづらくとも、
自分と向き合い、
望まない生い立ちへと辿る勇気は、
既に尊いと、私は思います。
気づき、生きづらさを手放す事を願うならば、
どうか、このまま、目を逸らさずに、見つめて欲しく思います。
軽やかな日は、必ず訪れると信じます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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