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心の中に【自分】を育てる、ただそれだけ

生きづらさを手放す、
自分を育て直す、
自分を統合する、

色んな言い方をしますが、本質的には、どれも同じ事を言っています。

永く続いた生きづらさ、を手放した人ならば、おそらく、

自分を育て直したという実感が有ると思いますし、
それが、統合する、ということだ、という理解にもきっと届くと思うのです。

形の無い、心、を考える時、私達は一旦、心を言葉に落とし込む事で、形を創り出し、

それを手がかりにして、絡んだ糸を解いて行きます。

その意味では、どの表現が自分に合っているのかを選び取る事は大切だと感じています。

表現の違いは、切り口の違い、視点の違い、入り口の違いであって、進む程に、一箇所に集まって来るのが解かると思うのです。

生きづらさを手放す、という表現を選んでも、
自分を育て直す、という言葉を選択しても、
自分を統合する、という文言をチョイスしても、

いずれにしても方法は、自分と向き合うこと、であり、

自分と向き合うことで、何が出来るのか、と言えば、

心に、確かな【自分】という意識、を持つ事、なのです。


どの表現を選んで、どの入り口から入っても、自分と向き合い、そして心の中の【自分】が存在感を増して来ると、

これまで如何に、【自分】が無いままに、他者を優先して生きて来たのか、という事に、嫌でも気がつきます。

こちらの人の輪に加われば、その輪の中で受け容れられる自分になり、

別の人の前に立てば、目の前のその人に受け容れられる自分に早変わりする様な生き方をして来た事に気がつきます。

その場その時で自分が変わってしまうのは、心に【自分】が無いから、だということが解ります。

受け容れられる自分に変わる、というのは、いつも下手に出て迎合するばかりではありません。

相手を自分より劣った存在と見て取るや、高圧的な態度になる事もあります。

また、受け容れられたいが為に、過度に良い人になったり、不自然な明るさを装ったり、という事もあります。

迎合するのも、高圧的になるのも、過度な善人になるのも、不自然な明るさを振りまく事も、

目の前の他者次第であり、心に【自分】が無い、自分を蔑ろにしている、ということの現れ、と言えます。

自分と向き合い、心に【自分】が育ち始めると、そうした事に違和感を感じる様になります。

それまでは、他人に合わせる自分を、人付き合いが上手い、とか、
臨機応変であるとか、
都合良く解釈したり、

逆に、どうしてもその場に馴染むこと、或いは、目の前の人に気に入られたり、一目置かれることばかりに気を取られる自分を心の中で責めたりしたかも知れません。


更に言うなら、目の前の一人の人物に対して、受け容れられたくて迎合していたものが、
受け容れられたと感じた途端に、高圧的な態度を取り出したり、

尊敬の眼差しで見ていた先輩を、些細な事をきっかけに、軽蔑したり、

大好きだった人が、急に大嫌いになったり、

といった、100か0か、白か黒か、の極端から極端を行ったり来たりする思考や、

理想化とこき下ろしの狭間で揺れるクセなども、

突き詰めると、心に【自分】が育っていない事が、原因だということが、

心に【自分】が育ち始めると解かる様になります。


人間は感情の動物であり、社会性の生き物です。

心に【自分】が育っていない事が、不安定な感情の正体であり、

不安定な感情は、健康的な人間関係の構築を阻害し、その人から社会性を奪います。


自分と向き合って、心に、確かな【自分】という意識、が育ち、生きづらさを手放したからと言って、

その人の人生から、困難な出来事や、悪意ある人が、魔法を使った様に一掃される訳ではありません。

私達には、起きる出来事や他者の心を、コントロールする事は出来ないから、です。

しかし、コントロール不能な出来事や他者の働きかけによって、発生する感情をすくい上げ、感じ尽くし、どう対処するか、を決めるのは、
唯一コントロール可能な、自分の心、です。

その心の真ん中に居るのが、感情をすくい上げ、感じ尽くす主体であり、
人生の主役とも言える【自分】なのです。

【自分】が無かったから、不安定な心に振り回され、人生は困難を極め、永く苦しんだのです。


心のこと、を考える時、

どの入り口から入っても、

向き合うのは自分の心であり、

育てるのは、確かな【自分】という意識、であり、

生きづらさを手放したい、と望むのならば、

する事は、【自分】を育てる、ただそれだけ、なのです。

そして、永く苦しみ生き抜いた人は、

間違い無くその力を持っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム




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