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無価値な自分、の現れ方

生きづらい人は、自分が生きづらさを抱えているのかどうかが、分からない場合が多いのです。

生きづらさの原因は、その殆どが、幼少期にあると言っても、言い過ぎではありません。

つまり人生の最初から、生きづらかったのですから、その人にとって、生きづらい状態が当たり前であり、

軽やかな心持ちになった事が無いので、分からないのは、無理もない事なのです。

それが、生きづらさ、というものなのかは分からなくても、
生きているだけで、辛いし、
存在しているだけで、苦しいのです。

述べた様に、生きづらい人は、自分が生きづらい、という事に気がつく事が、簡単ではありません。

しかし、気がつく事が難所であるが故に、生きづらさに気がついたなら、

生きづらさを手放す道程の、ほぼ真ん中の位置まで進んだと言って良い、と思っています。

生きづらい人が、抱える生きづらさに気がつく事は、大きな一歩、です。

生きづらい人は、悲しさ、寂しさ、虚しさ、などのネガティブな感情は、感じてはならないと思い込んでいる場合が少なくありません。

幼少期に、それらの感情を表したら、責められたからです。

責めたのは親です。

親は、親の都合や好みに合った感情を表現する時だけ、その人を受け容れました。

条件付きの受け容れです。

条件付きの受け容れに晒された子供は、
親の求める条件を満たさないと、自分には価値が無い、と思い込んでしまいます。

ありのままの自分には、価値が無い、と思い込むと、
ただ其処に居るだけでは、申し訳無いという感情に苛まれます。

現れ方は様々ですが、その心境に陥った子供は、ただ其処に居るだけで、申し訳無いのですから、

固く心を閉ざす子もいれば、逆に自分の存在を周りに認めさせようと躍起になる子もいます。

固く心を閉ざす子は、無価値感に苛まれ、無価値感によって身動きがとれません。

自分の存在を周知しようと躍起になる子は、自分が無価値であると思い込んでいるからこその、反動形成、です。

現れ方は正反対ですが、身動きが取れない子も、
自分の価値を周知しようとする子も、
心を占めているのは同じ、無価値感、です。


身動きが取れない子の場合も、生きづらさに気がつく事は簡単ではありませんが、
反動形成によって周囲に自分の価値を知らしめようとする子よりは、
自分が抱える生きづらさに気がつく事は、出来やすい様に思います。


身動きが取れない子は、親から感情を否定され、
受け容れられる時は、親の感情を優先した時のみ、という条件付きの受け容れが日常だった為に、
自分の感情にも、自分の存在にも価値を感じる事が出来なくなります。

優先するのはいつも、親の感情であり、要求であり、
それをすくい上げて、親の眼鏡に適った子、になる事が、
その子にとっては生きる手段だったのです。

すると、自分の感情はどうでもいい、という事に留まらず、むしろ、邪魔なもの、になります。

自分の感情が邪魔なのですから、心の真ん中に本来、どっかと座るべき確固たる【自分】という意識は、小さく縮こまり、隅っこに追いやられます。

その確固たる【自分】という意識が、縮こまり、隅っこに追いやられた状態の現れが、固く心を閉ざして、身動きが取れないその子の姿です。

周囲に自分の価値を知らしめようとする子は、確固たる【自分】が縮こまり、端に追いやられるまでは、

身動きが取れない子と同じですが、そんな価値の無い自分が、価値が有るかの様に思い込む為に、仮面を被る事を覚えます。

仮面を着けた、価値有る、偽りの自分として生き始めます。

最初は無価値な自分が、価値が有るフリをしている、無理をしている、という意識は有るのですが、

フリをする事が常態化すると、仮面は外れなくなります。

偽りの自分が、自分を乗っ取ってしまいます。

そうなると、自分が生きづらいという事を知る事も、生きづらさを手放す事も難しくなってしまいます。

生きづらさを手放す為に、自分と向き合おうとしても、仮面は外れず、自分の素顔と向き合う事は無く、仮面を被ったままの自分と向き合おうとします。

更には、その傾向が強くなると、仮面を被った自分と、素顔の自分に人格が別れてしまう事も、

仮面を被った自分が、二人、三人と増えていく事さえあります。


固く心を閉ざして身動きが取れなくなっている人も、

仮面を被って生きる人も、

心を占めているのは、無価値の思い込み、です。

原因は同じであれば、

現れ方は違っていても、

生きづらさを手放す、と決めたなら、

自分と向き合います。

仮面を着けて生きて来たなら、

仮面を外す事から始まりますが、

生きづらさを手放す、と決めた時点で、

心の奥では、自分の仮面に気がついていますし、

それが要らないという事も知っています。

仮面を外すのも、

生きづらさと向き合うのも、

生きづらさを手放すのも、

望む人生を歩むのも、

ぜんぶ自分です。

必ず、踏み出せます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








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