跳躍するために屈曲する
世の中には、生きることの助けになる考え方、教え、概念は沢山あります。
それらのものは、道しるべになり、励みになり、戒めや癒やしになります。
心のことを考えるとき、辿る道は沢山有る様に思います。
心理学を入り口にしたから、ずっと心理学に傾倒しなければならない、というものでは無く、
たとえば、心理学から入って、哲学や宗教が人生を歩む糧になっても良いと思うのです。
心のことに取り組む、その人が豊かに生きることが出来るなら、どの入り口から入り、どの道を歩いても、一向に構わないと思います。
ただ、「生きづらさ」を抱えて人生を歩み、その「生きづらさ」を手放したいと願うなら、
その時だけは、人生をより豊かなものにする為の考え方、教え、概念に当てはまらないことが多い様に感じています。
私は「生きづらさ」を抱えて長く人生を歩いて、「生きづらさ」を手放した、と思えている今現在は、
心理学者アルフレッド・アドラーの説く、目的論は、とてもしっくり来ます。
「過去の原因に執らわれる事無く、目的を見て、今を生きよ」という考えは、指針となり、励まされ、助けになります。
しかし、それは「生きづらさ」から解放されて、目的を見据える事が可能な心の状態になったから、だと感じています。
心から、自分には価値が無い、という思い込みが取り払われ、
自分の存在に対する安心感が生まれ、
自分を嫌うことが無くなった時に、
「過去の原因に執らわれる事無く、目的を見て、今を生きよ」という考え方に当てはまる様に思います。
何故なら、「生きづらさ」を手放すには、過去の望まない出来事や、言われ無き思い込みと対峙する必要がどうしても有ります。
何故わざわざ、過去の見たくもない生きづらさの原因を、今更掘り返す必要があるのか、
前向きに、目的を見て、今を生きればいいじゃないか、
と思われる向きも有ろうかと思います。
繰り返しになりますが、それは「生きづらさ」を抱えていない人に当てはまることだと思うのです。
「生きづらさ」は、自分を嫌ってしまったことによって生まれます。
嫌いになった原因は、言われ無き思い込みによるものです。
尊重されず、無価値な扱いを受けることで、心にべったりと、自分には価値が無い、という思い込みを貼り付けてしまったのです。
無価値な自分が大嫌いになり、大嫌いな自分と関わる人も、大嫌いな自分の人生も、嫌ってしまった状態です。
その状態で目的を見据える事が出来るでしょうか。
その人は、今を生きる事が出来るでしょうか。
心に葛藤を抱えていない人が、
過去に執らわれず、目的を見て、今を生きることは、前向きな姿勢です。
生きづらい人が、その姿勢を取ってみても、自覚の有る無しに拘わらず、自分が嫌いで、自分に関わる人が嫌いで、自分の人生を嫌ったままです。
長く苦しんで来たとしても、生きづらさの原因は、単なる思い込みです。
今更、過去を掘り返す意味は、単なる思い込みだったということを腑に落とすため、です。
本当は価値有る存在だったのに、貶められ、虐げられる環境に育ったために、無価値であると思い込んだだけだったと、思い出すために、過去を辿ります。
生きづらい人は、
私は人間です、私は日本人です、と考えなくても、認識していることと同様に、
私は無価値です、と認識しているのです。
その認識は言われ無き思い込みによるものに過ぎない事を、思い出すため、
本当は価値有る存在だったと、思い出すため、
思い込みは、こんな環境に育ち、こんな扱いを受けたからで、何も自分を嫌うことは無かったんだ、と腑に落とすため、
過去を辿る必要が有る、と考えます。
生きづらさからの解放の道は、
世に有る、豊かに生きる考え方に、沿わない側面も有るかも知れません。
その意味で、例外と言えるのかも知れません。
しかし、それは豊かな人生への、
跳躍の前の屈曲なのだ、と思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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